【シンガポール法会】着実に自分を修煉する
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文/シンガポールの大法弟子

 【明慧日本2023年2月14日】

 尊敬なる師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 私は28年前から修煉しています。修煉する前は、いろんな本を読むのが好きで、よくわからない分厚い哲学書などを読んでは、人生に疑問を持ち、無意識にいつも答えを探していました。以前、学校で授業が終わった後、英米文学史を教えている先生と数人の生徒が談笑していたのを覚えています。私はこの先生に、「人生とは何ですか?」と聞くと、先生は「人生は修煉です」と言っていました。この答えは、私の記憶に深く焼き付いていました。大法に出会って初めて、自分が求めていたものは大法であり、この人生は大法を修めることだと気づいたのです。

 メディアのプロジェクトで修煉する

 私は10年以上前からメディアサイトのプロジェクトに参加し、当初は何もわからず、ゼロからすべてを学びました。協調人はプロ意識が高く技術力があって、効率的で賢く有能です。いろいろな質問をしましたが、協調人はできる限り答えてくれました。後で聞いたら、その協調人は昼間に常人の仕事をし、夜はプロジェクトに携わっているとのことだったので、あまり迷惑をかけてはいけないと思いました。年配の2人の同修は根気よくいろいろなことを教えてくれました。同修が私のために教えてくれた時間に顔向けできるように、プロジェクトでは人一倍頑張らないといけないと思っていました。また、ある協調人同修から特別なトレーニングを受け、メディアの仕事に対して真剣かつ厳格な態度をとる必要性を理解するのにとても役立ちました。ネットでの当番が人手不足だった頃、私は一人で当番することがよくあり、仕事量も多く、メンテしなければならない面も多く、何時間も緊張状態が続くこともしばしばでした。その時、私たちは皆、師が法を正すことを手伝い、衆生を救うという信念と、互いの信頼感をもって、無私無欲で取り組んでいます。

 印象的な人物や出来事を振り返ってみると、プロジェクトや過去のこと、一緒にいた同修、そして何より師父が作ってくださった環境を大切にしなければならないと感じています。

 このプロジェクトにしばらく携わっていると、メディアがだんだん変わってきて、党文化のものが多くなり、仕事の質を重視するのではなく、ひたすらにアクセス数を重視するようになり、目先の目的を達成することや利益を得ようと焦るようになりました。戸惑いを感じ、経営層にも不満を持つようになり、どうしようもなく消極的になってしまいました。外見的な不足に目が行ってしまい、自分自身の消極的状態の背後にある悪いものを取り除くことがすぐにできず、人心を取り除くこともできなかったのです。実際、メディアのプロジェクトに参加した後、かなり長い間、プロジェクトの仕事を優先にし、法を正すことが終わる時期に執着してしまいました。すると、修煉が追いつかず、正念が足りなくなったのです。よく考えてみれば、その不満の背後には他人を見下す心、闘争心や嫉妬心がありました。

 その後、私は少しずつ自分の姿勢を低くし、炊事係の小坊主として黙々とやるようにしました。あるとき、1人の同修が「あなたに不満を持っている人がいる」と声をかけてきたことがありました。私は表向きは抑えつつも、それらの発言に反対意見を述べました。その後、不平を感じ、「真面目にやったのは間違いだったのか、彼らが一団となり人を下に引っ張るのか」と思いました。こうして、さらに不平不満を感じるようになり、闘争心がどんどん高まっていったのです。学法すると、自分が手放せないことに気づきました。これはただの人心ではないか、修煉はまさにこれらの人心を取り除くためなのだと気づきました。他の人は名利を仕事に持ち込んでいるように感じました。私はお金をもらっていないのに、本当に名利心がないのでしょうか? 他人の仕事の質に満足できない自分には、不満や名声を求める心、人を見下す心があります。他人が間違っていても、自分が正しいとは言えません。人心を取り除くことが大事なのです。自分に理があると言って譲歩しないのは、常人の中ではよくあることです。私は大法の基準を満たし、すべて他人のためにやっているのでしょうか? 同修は確かにプレッシャーがあり、忙しい中で一生懸命に仕事をこなしています。それどころか、同修たちはもっと多くの仕事を担っていました。心が落ち着くと、何事もなかったかのようにすっきりとした気持ちになりました。

 昨年、メディアのプロジェクトに参加している人に校正、文法、ニュース報道、文章作成の試験を受けるようにと求められました。研修資料を渡されたとき、その内容の多さに時間が限られているので心配になりました。一方、スタッフのレベルを上げ、仕事の質を向上させるためにも、試験は必須だと感じ、みんながもっと自分に厳しくなれば、環境ももっと良くなるはずです。しかし、もう一方で、自信がなく、こんなに多くの内容を覚えられるのか、この試験はどんなふうに行われるのか、問題は難しいのかなど、よくわからなくて、抵抗する気持ちもありました。落ち着いてから、自分に「これらは身につけるべき最も基本的なことなので、なぜ勉強しないのか?」と問いました。そこで、日常生活をできる限りシンプルにし、他のことをスムーズに段取りして、勉強の計画を立てるようにしました。落ち着いて少しずつ勉強していくと、本当に理解できない時があります。わからない内容、うまく理解できない資料は、何度も読み返すようにしています。それと同時に、心配する心を放下しました。試験でうまくいかなくても、それは自分にしか影響しません。メディアの仕事でミスをすれば、それがユーザーに影響すると思っています。ですから、試験は日々の当番と比べて、そんなに重要ではないのです。真剣に取り組んで気持ちを整えれば、そんなに結果を重要視する必要はないのです。結局、すべての試験に見事に合格し、自信につながりました。

 ニュース報道という環境では、世の中の動きに注目しています。修煉者のよく修めた部分が隔離された後、常に人間面が修めるのです。そして、人間面はさまざまな要因に流されやすく、自己防衛しがちなので、誰が常に間違いを起こさないようにできるのか? と法から理解しました。ですから、常に自分のやっていることの基点を正すことができれば、間違いは少なくなります。

 明慧報道の中で修煉する

 私は十数年前から、明慧ネットに現地の活動状況を投稿することに携わっています。その過程では、うまくいかなかったことも多くありましたが、自己への執着を徐々に取り除くようになると、師父のご加持による多くの奇跡もあり、感謝いたします。

 文章作成では、アイデアが浮かばず苦労することもあれば、アイデアが浮かんだものの、他の用事で席を外し、その用事から戻ってくると頭が働かず、思い出せないときがあります。一瞬、思いついたアイデアはすぐに記録しなければならないのです。実は、仕事状態に入った時は、邪魔されるのがとても怖いのです。ある日、記事の報道に追い込まれていたところ、同修から何度も電話がかかってきて、あることを聞かれました。その同修の切実な悩みにできる限り対応して、自分のわかる範囲で返信し、「自分は今忙しい」と何度も説明したのですが、その日の午前から午後までずっと電話がかかってきたのです。夕方にまた同修からの電話がかかってきて、私の心は一気に動転し、心の容量が明らかに足りなくなり、それ以降電話がかかってこなかったのですが、私はまとめていた原稿の大部分を保存しそびれ、消してしまいました。

 原稿をまとめる前や、事前に取材があるときは、私はいつも大まかな時間計画を立て、精神状態を調整するのですが、何回も、その過程で邪魔されたこともあり、かなり苦しい思いをしました。最初は、このことに合わせてやりきるのが目的だとばかり思っていたので、できる限り我慢してやっていましたが、最後の最後でイラッとすることもありました。振り返って考えてみると、「たしかに、いつもスムーズにいっていれば、こんなに大変なことはないのだが、これで、もっと苦を嘗めたのではないか?」と思いました。メディアプロジェクトの研修では、ある作家が文章を書くときの成功の秘訣について、「読む、読む、読む;書く、書く、書く;耐える、耐える、耐える」と語っていたそうです。文章を書くことは難しい、創作は難しい、書き直しの試練、編集、出版社、批評家は皆ハードルであり、常人でさえ耐えなければならないことを悟りました。

 かつて、ある同修と意見が対立したことがありました。相手は分かっていないのに分かっていると言ったり、他人のよくやっていないことを私のせいにしたり、私を圧制しようとする勢いがあると感じてしまいました。そして偶然にも、その前に2人の同修が私にこの同修への不満を言ったのです。この考えに従えば、その同修は間違っているに違いないという論理になるのです。

 自分を振り返ってみると、反論したり、自我に執着したり、人に言われたくない、善が足りなかったりと、自分の容量が足りないと感じていました。相手が理不尽に思えたときこそ、修煉者の忍耐力が現れるのです。人心が放下できると感じ、しっかりと協力したいと思ったとき、師父はその同修の輝く一面を見せてくださるのです。

 時には自分の書いた文章が掲載され、同修から称賛の声が寄せられることもあります。褒められると励みになる反面、顕示心や歓喜心に警戒しなければいけないのです。挫けるときこそ、隠されている自我を証明する心を見つけ出せるのです。

 ここ数年、私は物事をちょっと真剣にすれば、師父はそれ以上のものを与えてくださるという経験をよくしてきました。考えてみれば、本当に奇跡的なことがたくさんありますし、師父はいろいろな道を切り開いてくださったのです。「4.25事件」の目撃者がいればいいと思って、振り向くと、ある年配の同修が私の後ろに立っており、尋ねると、その同修は、「私はその時そこにいた、何を知りたいの?」と言ってくれました。また、どうなることかと思いましたが、続けて出会った2人の同修が、1999年以前の感動的な体験を語ってくれ、まさに私が望んでいた通りの展開となりました。大法が広がって30周年の2022年、3人の古い同修と出会い、話を聞かせてもらったとき、私はあまり深く考えていなかったのですが、インタビューをして初めてわかったことは、その3人の同修は皆、師父が海外に法を広め始めた1995年の春に修煉を始めていたのです。記事を書き終えてから、ますます「その3人の同修をインタビューすべきだ」という気持ちになりました。過ぎ去った年月は大切な思い出となり、昔の写真もちょうどいい感じです。他にも数え切れないほど多くの事例がありますが、ここでは割愛させていただきます。

 私はしばしば、師父の慈悲に感動し、自分の物語を分かち合い同修の法を実証したいという心に感動します。それらの黄金のような心はエネルギーを放ち、私の修煉を更に精進させるよう励ましてくれるのです。

 家庭環境の中で修煉する 

 家庭という環境は、最も自分を緩め、自分の欠点をさらけ出しやすい場所であり、修煉の場でもあります。一挙一動やいかなる言動でも、善か悪か、細かいところに至るまで、他人のために考えているかどうかが現れるため、トラブルを回避するのは、そう簡単なことではないのです。

 ある時、夫にコンピューターについて質問をしたら、夫が英語で言ってきて、私がよく理解できなかったので、夫はさりげなく「これぐらい分からないと、コミュニケーションはとれないよ」と言っていました。これを聞いて最初は、少し傷ついたと感じたのですが、すぐに「そういえば昔、自分もこんなことを言っていたのでは」と気がついたのです。実は、夫は事実を言っただけで、何でもないことなのです。今までの私の言葉は、自分勝手で人を傷つけ、私利私欲の文句が混じっていることが多かったと気づきました。

 またある時、ちょっとしたトラブルが生じたので、「我慢しなければ」と思ったこともありました。それから間もなく、師父の説法の録音を聴くと、師父が「真瘋」について話され、「その真瘋した人は、自分で耐えているのだ」と理解し、私の心はぱっとひらけ、すぐに忍について新たに理解したのです。

 家族から不満を示された時期もありましたが、「私のこの年なら、多少口うるさくても当たり前だ。仲のいい人とだけ話が弾む」と、深刻に受け止めませんでした。この不満が何度も出てきて、初めて自分が間違っていたことに気づいたのです。自分を表現したい、口を出したい、話を奪いたい、その背後には強い利己心があり、他者への配慮を欠き、自分の気持ちだけを優先しているのです。感情を発散させ、温もりを求める中に、重い情があります。何年前も遡ると、自分がうまくできなかったこと、つまらないと思ったことがたくさん浮かんできて、本当に恥ずかしいです。口を開けば、どれだけの人を傷つけてきたかわからないし、自分を深く咎め、悔しくてなりませんでした。その間、体の調子も悪く、まったく自信がなく、声も出せない状態でした。

 ある同修が交流文の中で、「トラブルの中で『自分が悪い』と無条件に自分に言い聞かせ、辛い中で自分を修めたので、数年の忍耐の末、次第に自分自身の生命の深い次元における習慣や気質、観念の奥にある、古い宇宙の我欲を運ぶ多くの汚いものが見えてきた」と書いていたのを覚えています。この一節は私の心に深く響き、私利私欲という考えを深く掘り下げ、伝統に反する習慣を取り除くよう促しました。

 言ったばかりの言葉には私利私欲が混じっており、自分がまた間違ったと気づいたことが多くあります。こうして何度も何度も、自分を修めて直していくのです。家庭の中には些細なこと、限りない家事、内外のバランスをとるべきことがたくさんあり、それらに深く巻き込まれることで悔しい心、文句を言う心、焦る心、気楽を求める心、などなどが露呈しがちなのです。トラブルがあるとき、内に向けて探すのは唯一の解決法なのです。自分のことばかり考えていると、他人からいつも不当な扱いを受けているように感じ、他人を思いやることで、環境が良い方向に変化することを実感しています。

 追記

 自分のそれぞれの欠点を羅列していくと、この文章を書きたくなくなり、せっかくの交流の機会をあきらめかけていました。交流文を書くという過程は修煉の過程であり、過去を纏めて自分を正す過程でもあり、法を実証するためでもあると認識して初めて、この文章を書き始めたのです。

 師父は「いずれにせよ、実は師父が最も言いたいのは、形勢が変化していますが、大法弟子の修煉は形勢の変化にしたがって変化してはいけません。いかなる状況下でも必ず動じないでください! すべての人が大法弟子らしく、いかなる問題に遭っても自らを修めてください」 [1]とおっしゃっています。

 今、形勢は目まぐるしく変化しているのですが、弟子は師父の言い含めてくださったことを肝に銘じ、自分をしっかりと修めて修煉の道を歩んでいきたいと思います。

 次元が限られているため、法に背き不適切なところがあれば、同修の慈悲なるご叱正をお願いします。

 師父に感謝いたします。

 同修の皆さん、ありがとうございます。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十三』「二〇一四年サンフランシスコ法会での説法」

 (2023年シンガポール法会交流原稿)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/1/11/454673.html)
 
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