内に向けて探すことこそ真に自分を修めている
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年12月14日】私たち夫婦は毎日一緒に法を学び、功を煉り、正念を発し、人を救い、よく法について交流し、話し合い、互いの欠点や不足を指摘し、その場で帰正するのです。

 最近、夫が静功を煉っている動きが標準的でないことに気づきました。 手を広げたとき、腕が腰と水平でなく、とても低く、指先が下に向き、神通を加持する時、腕が不安定に上下しています。 そのため、私はよく「腕を上げて、ぼんやりしないで」と念を押します。 その都度、私が注意すると、彼はすぐに動きを調整してくれたのですが、しばらくすると元に戻ります。 このように、私は毎日、彼が煉功しているときに、念を押していたのです。 長い間、その状態は変わりませんでした。 私は少し焦り始めて、念を押すと口調も態度も優しくなくなり怨恨心も次第に芽生えました「座禅を組むとき入静の状態に至らなければならないのに、そちらの動作が正しくなければ、ずっとそちらを見張っていなければならない、入静出来なければ、煉功する効果をどうやって得られるのか? 私はあなたのためを思ってやっているのだから、 あなたも私のために同じことをしてほしい。どうしてあなたはいつも人に心配をさせてしまうのですか?」と憤りを募らせたのです。

 ある日夫は、座禅をしている時、背もたれに寄りかかり、眠っているような状態でした。 私は大きな声で 「寝てる?」と話しかけました。 彼はびっくりしてとても怒り「俺寝てないから、それよりお前自分を見てみろ」と怒鳴りました。 そして、座禅をやめて、ベッドから下りました。 私は彼の怒鳴り声で目が覚めました。私は彼の為を思って言ったことなのに、なぜ彼はあんなに怒っているのだろう?  きっと私が間違っていたのでしょう。 そこで私は、自分のどこが法に符合してなかったのかを内に向けて探しました。 そうすると実に衝撃的でした。

 まず、私は「真」ではなかったのです。 夫の動作を直す手伝いをしていたとき、私は純粋に夫のためを思っていたわけではありません。 自分のことを考えて、彼の動きが修正されれば、私は彼を見張る必要がなくなり、その後は入静することができるのです。 これは、私のため、私自身のためではないか。 表面上は、彼のためを思ってのことのようですが、実は心が不正でした。それに「善」も実践してません。 同修の動きが標準に達していないとき、慈悲心をもって、思いやりや優しさをもって伝えるのではなく、厳しい言葉で責めてしまったのです。 これは偽善です!  さらに「忍」も実践出来ませんでした。 時間が経っても夫の動きがあまり変わらないと、夫に対して焦り、憤り、怨恨さえ感じるようになりました。 20年以上も修煉をし続けてきたのに、どの様に修めてきたのでしょうか?  私は大法の基準である「真・善・忍」とどれ程かけ離れていたのでしょうか。

 私は、この出来事は慈悲深い師父が家族を用いて私のために入念に按排されたのだと気づきました。 それは、私が長い間隠してきた深い利己的な心や恨みをさらけ出すためであり、同修の正しい行いは、まさに私が内を探し、自分を修め、向上するための秘訣なのです。

 このとき、私は深く恥じ、自責の念に駆られました。 師父の慈悲なる済度の苦労に申し訳けなく思い、自分の修煉に手助けしてくれた家族や同修にも申し訳けないと思いました。 同時に、体内にある悪い物質が取り除かれたのか、急に体が軽くなったような気がしました。

 翌朝、第五式の功法を煉るとき、私はもう夫を見ませんでした。 座禅を組むと、自分の空間場が非常に清らかで明るいと感じました。 やはり、内に向けて探すことは正しかったのです。 第五式の功法が終わったとき、夫が嬉しそうに教えてくれました「今日の座禅の動きはとても標準的で、入静する状態もとても良かった、こんな感覚は久しぶりだ」。 私たちは互いに顔を見合わせ、納得して微笑みました。

 真に内に向けて探していると、体の中の悪い物質や悪い考えがなくなり、修煉の環境も変わり、身の回りのことがスムーズに動いていることがわかりました。

 私はこの出来事を通して、大法に完全に融合し、同化するために、うまくいかないときは内側に向けることが真の自分を修めることにつながるのだと悟りました。

 個人の浅はかな悟りですので、間違ったところがあれば同修の慈悲なるご叱正をお願いします。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/12/7/452781.html)
 
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