アルゼンチン法会|真の修煉の道を歩む
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文/アルゼンチンの大法弟子

明慧日本2023年1月13日】

 尊敬なる師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 私はブエノスアイレスに住んでおり、2013年から法輪大法を修煉しています。

 今日お話しするのは、ドラマチックな体験でも、素晴らしい成果でもなく、ごく普通の小さな体験談です。その中には、執着や観念、人心、また不遇や紆余曲折に満ちていますが、たとえこれからの道が依然として長いとしても、それらの体験談を皆さんと分かち合い、自分が真の修煉の道を歩んでいることを確認できればと思っています。

 嫉妬心を認識して取り除く

 最近、ある人が街灯柱に貼られた「嫉妬の中にある嫉妬を徹底的に取り除こう」という言葉を読んでくれました。最初に聞いたときは少し驚きましたが、自分にはこのような執着はないと思っていました。しかし、偶然のことはありません。師父は『轉法輪』で一つの問題として、嫉妬について説法され、そして「嫉妬心は必ず無くさなければなりません」[1]とはっきり告げられています。

 そこで、嫉妬心という街灯柱に貼られたその言葉をずっと考えていました。心を静めて内に向けて探した時、全ての執着心は最終的に嫉妬心の一部になることに気づきました。もし、嫉妬心が人間の執着のすべて、あるいはほとんどすべての源だとしたら、嫉妬心は人間的な一面、つまり、自分が修煉し向上するために手放さなければならない「自我」を表しているのです。

 街灯柱に貼られた言葉を読んで数日後、夫に対する嫉妬心が一気に爆発しました。全ての恨み、不平不満、人を見下す心、是非への執着、優越感など、すべての執着心が暴露されていたのです。今まで持っていなかった考えも芽生え始めたのです。それらの思いは突然現れたので、自分の思いなのかどうかは一瞬わからなかったし、ましてやそれを排除することはできませんでした。「私は基準に達成できないのに、なぜこのまま修煉し続けるのか?」という声が聞こえてきました。学法をやめるべきか、修煉のことを趣味にして、好きなことをすればいいと自分を納得させようとしました。私は法会に参加することも含めて、すべてをあきらめたかったのですが、自分の執着心を取り除くことは諦めたくはなかったのです。法会の開幕まであと3週間しかなく、内に向けて探して、再び修煉の道に戻る時間はあと3週間しかないです。

 私の心の中では、自分の人間的な部分と自分の良くわかっている部分との戦いが繰り広げられていたのです。人間的な部分と照らし合わせると、案外悪くないのかもしれません。この内なる戦いで、物事への理解を深め、より多くの執着心を取り除き、心性を高めることにつながっていることを望んでいました。

 今、私は嵐の中にいるような気分で、心がとても苦しくなっています。どのように歩んでいけばよいのか、まだわかりませんが、まずは「学法」という最もシンプルで大切なことから始めています。

 学法が足りないというのは、今の私がこのような状況に陥っている原因の一つです。心に法がなければ、法の基準で自分を測り、内に向けて探して執着心を取り除くことができません。今は私は再びグループ学法に参加し始めています。自分の思想業力と戦っている毎日ですが、これが今の私の進むべき道なのだと思っています。

 ここ数年、特に結婚して一歳半違いで2人の子供が生まれてから、私の環境は大きく変わり、スケジュールの段取りや順番も変わりました。自分の時間は持てなくなり、それを自由に支配することもできなくなったのです。そして、2人の子どもの面倒を見なければいけないのです。

 動揺せずに学法をしなければいけないとわかっていますが、どうしてもやり続けられなく、環境の変化に適応できず、自分が下へ下へと落ちていくのを感じていました。また、夫とのトラブルが次々と現れ、それで恨みや不平不満の念が生じてしまい、私の考え方が常人と同じようになったのです。

 これが今の自分の修煉環境であり、心性を高めるためだと気づかず、大切にすべきものであることに気づかなかったのです。困難やトラブルを自分自身の修煉や向上のための良い機会として活用することはしませんでした。それどころか、新しい現実を受け入れることを拒否してしまったのです。学法していたものの、あるときから学ぶことが少なくなったり、集中できなくなったりしました。そのほかの時間は、「学法できない状況なのだ」と感じたこともありました。そうして悪循環に陥っていきました。向上したいという気持ちがあると同時に、すべてが私を「溺れ」させようとしていたのです。私の頭の中にある否定的な考えが、学法するに値しないという気持ちにさせたため、思想業力が大法弟子がしなければならない三つのことから私を引き離そうとしていたのです。

 これまで、少なくともこの点では、私は常人と同じようになりました。トラブルや困難に直面したくないし、常人の中にある自我を手放したくないのです。私はまだ、衆生のことより、自分の考え、感情、感覚に執着しており、私の利己主義が、私の信仰を覆い隠しているのです。

 情と我慢できないこと、この2つの執着が私を妨害していることは分かっています。

 「情」を修める

 私はもともと感情的な人間で、自分の感情や感覚に流されるだけでなく、それに応じて多くの状況を見誤ってきたのです。今回の体験談を書く過程で、正念が欠けると、情が湧いてくるということに気づきました。私の思考、言葉、行動が偏り、非論理的、非合理的になったとき......そこには「情」があるのです。ある生命が正しくない状態にあるとき、旧勢力は情を使って私たちを妨害することができるのです。

 「情」という物質を何層か取り除いたものの、まだ全部取り除いていません。しかし、師父は、「この情を断ち切らなければ、修煉することはできません」[1]と説かれています。

 情に執着するあまり、私はある状況を間違って理解し、すべての衆生にはそれぞれの道があり、それぞれの選択があることを忘れていました。例えば、他の人は家族の面倒を見るのに、もっと良い条件を持っていても、私は家族の面倒を見るべきと思い、それが私たちの縁や前世での借りだと思っていました。兄弟の生活や彼らのやるべき決断に関与したり、他人のためにあることを無理矢理に約束したりしたのです。

 ここではっきり言っておきたいのは、人には家族に対する義務や責任があると思いますが、ここでは「法」の立場に立っていない状況について話しているのです。

 私の夫も法輪大法を修煉しています。その方が楽だと思う人もいるかもしれませんが、トラブルや日常生活の中で、いつも同修であることを意識していないのです。結婚生活において、より調和を図り、対立を少なくしようとすると、より多くの困難や様々な状況が発生し、ひいては旧勢力が事態をさらに悪化させ、深刻化させることになるのです。

 情もまた、私の主意識を弱める要因のひとつです。情によって、自分の考えを区別し、識別することができなくなります。表向きは認めませんが、自分の失敗や欠点を夫のせいにしていました。私が向上することを助けてもらい、私の悩みを解決してくれることを期待しています。

 また、子どもたちへの情は薄いと思っていますが、それは自分自身に嘘をついているのです。子どもの世話、教育、ルール作りなど、ひとつひとつは心に響きました。夫がルールを作った時、私は涙が出ました。子供たちを満足させようとすればするほど、事態は悪化していきます。子供たちは私への依頼心が強くなり、彼らは楽しくなく、泣いたり叫んだり、眠れなかったり、この年頃にあるべき自立力もありませんでした。

 「忍」を修める

 自分の修煉に影響していると感じることの2つ目のことは、忍耐力のなさです。 私は今まで忍耐に対して真に修めたことがなかったので、今、その物質が山になってしまいました。

 師父は「忍の中には捨があり」[2]と説かれています。

 私は長年、「放棄すること」を重視しておらず、自分ができること、自分がやりやすいことを選んできました。例えば、二層のある蓮の花作りを一度やったことがあったのですが、「自分の都合に合わない」、「忙しいから」といった理由でやめてしまったのです。

 私は表面的に優しく善良な性格を持っているため、大きな魔難には遭遇していないし、「ついていけないから、修煉をやめたい」と思っていました。以前は、大法にすべての時間を使い、自分のやりたいことを全部自分で決めていました。自分の仕事のスケジュールの一部を段取りし、姉と同居し、比較的に快適に暮らしていました。一生懸命やっているように見えたのですが、そういう努力の源は利己的で、とても低い次元の努力なのです。

 状況が変わると、修煉の次元を高めるために、放棄することはなかなかできなかったのです。私はプレッシャーに耐えられず、プレッシャーが多くかけられると、逃げ出したくなります。この全ては、私が忍ができていないことを表しています。

 この高める過程で、私は試煉に遭遇しましたが、なかなかうまく乗り切ることができませんでした。ある日、夫と衝突し、いろいろな言い訳や理由、人心が出てきましたが、私は無条件で法に従わなければなりませんでした。

 私は泣いてしまい、韓信のように「忍」を修めろと言われているような気がしました。 しかし、たとえ股くぐりで辱められても、この試練には合格しなければならないのです。 自分が研ぎ澄まされ、常人の自分を脱ぎ捨て、謙虚になっていくのだと、心の奥底で感じていました。

 そして、苦を嘗める能力を向上させるためには、傲慢や優越感や独善といった心を捨て、謙虚さを養わなければならないことを、自分の次元で理解しました。

 「忍」を修めることにおいて、私はまだまだ精進が足りず、この先、道のりがまだまだ長いのです。

 主意識を強める

 「自分には無理だ」と落ち込んでネガティブになっている状態が、自分の主意識を弱めてしまったのです。その状態で、自分を支配する黒い物質に覆われているような気がしました。

 病気ではないのですが、師父に言われたとおりの気持ちになりました。師父は、「本当に病気になるのは、7分の1の精神と3分の1の病気だということは、みんな知っている」と言われました。 先に倒れるのはその人の精神で、先に失敗するのはその人の負担で、病気が劇的に変化する、そういうことがよくあります」 [1]と説かれています。

 この状態は、ある状況やトラブルに直面したときに生じて深刻になるのです。完全に絶望したと思った瞬間、私には常人の道を歩むか、大法に従うかの2つの選択肢があることに気づきました。

 私は、学法でしか自分の主意識を強めることができない、再び自分を修煉者とすることを決心しました。本当に内に向けて探すのは、口で言うほど簡単なことではありませんが、この目覚めは私の主意識を強めてくれました。

 法を読んでいると、いろいろな思いが浮かんできます。また、拒絶や怒り、憎しみといった感情もあり、それらの思いは行ったり来たりと、繰り返していますが、法を学び続けることで、これらのネガティブなものが明確になると同時に、常に弱くなるのです。

 また、地元の大法グループと連絡を取り合っていることで、現れた一つ一つの状況や同修の修煉体験談を、自分を高めるために活用できるようになったことも大きなポイントです。

 これによって、トラブルの中で修煉するということはどういうことなのか、なぜ大法では、一見難しく複雑に見える状況でも、トラブルの中で功を得ると言われているのか、より深い次元から理解できるようになりました。

 私たちは、法輪大法が常人社会で修煉することを要求し、トラブルを避けたり逃げたりしないことを知っています。私は、魔難を経験したり、苦しみに耐えたりすると、業力が転化されることを知っていますが、私が難関に遭遇する時、法の基準に達することができません。

 これはなぜ、私がこの段階でまず試練を受けなければならない原因なのです。あらゆる困難やトラブルや衝突は、私たちの修煉の道の一部であり、それらを受け入れ、活用することを学ばなければなりません。このようなトラブルや困難があるからこそ、私たちは法で自分を高めることができるのです。

 さらに、旧勢力は私たちの弱点を知っていて、それを利用して私たちを修煉から引きずり出す機会をじっと待っているため、我々は警戒しなければならないのです。そういう生命が私たちを内側から壊していくのを感じるので、とても苦しく思いますが、同時に、私はしっかりと排除するのではなく、それらを受け入れています。

 この次元で、私はいかにあの状態、及び私を支配していたあらゆる物質を突破したのか、また妨害についての最も重要な理解を共有したいと思います。私は「法」の中から答えを見つけ出しました。

 自分の状態を変えるには、ただ内に向けて探し、執着や常人の観念を見つけるだけではありません。「法」に溶け込まなければならず、そのネガティブな状態から脱却しなければいけないのです。警戒し、前向きに自分の思いをコントロールしながら、その思いで私を妨害するものを強く取り除く必要があります。

 これは一度に取り除けるものではありませんし、毎回うまくできることでもありませんが、私を妨害するものが少しずつ弱くなってきているので、そういったネガティブの生命や物質が自分の空間場に入らないように、動揺することなく努力し続け、法で壊されない保障が形成するまで地道にやっていくしかありません。

 私の体験が、ネガティブな状態や落ち込んだ状態にあり、まだそこから抜け出せない同修の助けになればと思います。

 大法の中の一粒子となる

 長年法輪大法を修煉して以来、私は大法弟子の一員として、師父の要求に従って自分を修煉することができました。

 師父は、「大法弟子がこの環境の中で形成した高い境地での行為は、その一言一行を含めて、人に自分の足りないところを認識させ、ほかの人との差を気づかせ、人を感動させ、人間の行為を熔煉させ、人間を早く向上させることができます。ですから、新しい学習者や独学の弟子は、必ず煉功点に行って煉功してください」 [3]とおっしゃいました。

 純粋な環境で自分を修めることの可能性は、言葉では言い表せないほどです。そのような環境は、私たちが法の中で絶えずに修煉に努め、向上させ、より精進させました。同修の心のこもった体験談を聞くたびに、心に響き、感動し、勉強になりました。それぞれの粒子がそれぞれの機能を発揮し、支え合い、助け合っているように感じました。

 批判を受け入れるのは簡単なことではありませんが、他人に問題点を指摘するのも簡単なことではありません。他人の問題を指摘できるようになるには、私利私欲を求める考えや面子が潰れる恐れを捨てなければなりません。理解や批判を耳にした人は、自分を高めるために内に向けて探し、他人の意見を受け入れる良い機会になります。

 私は長年、同修が困難な試練を乗り越え、必死に執着を取り除く姿を目の当たりにしてきました。最も重要な時、大法の全体としての力、大法の威力の現れを見ることができるのです。交流会で師父の慈悲を感じることがよくあります。師父が我々のことを諦めず、何度も何度も私たちに執着を認識させ、心性をを向上させる機会を与えてくださっています。

 また、交流を通じて、いかに間違いや偏りを修正すればいいかが見えてきました。だからこそ、大規模な修煉体験談の法会が重要なのです。

 心性の摩擦や批判、衝突は避けられないものであり、私たちを向上させるために段取りされたものであると悟りました。私たちの心の容量が大きくなり、法に溶け込むとき、それが真・善・忍を修煉する道の一部であることを理解できるようになるのです。

 師父は2006年の説法で、「いくら不当な仕打ちを受けても、平然として対処し、心が動じることなく、自分のために言い訳をせず、多くの場合、弁解する必要もありません。なぜなら、修煉の道のりにはいかなる偶然なこともなく、話をしている中であなたを刺激したもの、トラブルの原因である利害関係は師父が作ったものかもしれません」[4]とおっしゃいました。

 同修の交流を聞くことで、新たな気づきがありました。同修が体験している過程を理解できますし、さらに同修の執着が見えたことや同修の法に対する理解が分かったことで、得をすることも多々あります。例えば、ある同修は、いかに法をもって自分の言動を測り、自分のものでない考えを排除していることを交流しました。同修が話してくれたことは、私にとってとても刺激的なことでした。また、同修から真相を伝えることやより精進する体験談を聞くことも、私たちの励みになっています。いつも日常生活で出会う人々に真相のチラシを渡し、大法の真相を伝え、あらゆる状況の真相を伝えるチャンスとして扱うことを、忘れていると気がつきました。

 悪い時もあります。あるとき、同修から「常人の話題でよくメッセージを送っていたので、その時間を学法に使ったほうがいい」と指摘されたことを思い出します。その同修の本意が良いと分かっていても、その時、同修の言うことが間違っていると感じ、心が揺さぶられ、顔も赤くなり、その同修に対して、ネガティブな考えも持つようになり、「彼女は精進していない、内に向けて探すのではなく、私の執着を指摘している」と思っていました。しかし同時に、私は耳を傾ける必要があるとわかり、同修の言うことが自分にとって「正しくない」としても、内に向けて探さなければいけないと思っていました。

 内に向けて探すことで、面子を失うことを恐るという執着を取り除くことを助けることができます。自分の認識を超えること、耳を傾けることや同修から言われたことを大切にします。同修が指摘してくれたことは、彼女にとって正しくないようであっても、他の時、他の人にとっては正しいのだということを知ることができました。たとえ快楽でなくても、他人の意見に耳を傾けることは、逆境や困難に直面したときに強くなれ、自分に対する評価や顔色、怒っているかどうかを考えないようになりました。他人のことを第一に、自分の気持ちだけを考えないことで、利己主義もなくなると思います。

 私たちが一つとなるために極めて重要なことは、プロジェクトに参加することです。修煉者としての純粋な環境を維持することに加え、対面で真相を伝える活動、煉功場、或いはメディアプロジェクトなど、どれも修煉者にとって非常に重要なことです。

 師父は、私たちにプロジェクトに参加する機会を与えてくださり、法の中で試煉させられます。同修と一緒にやることで、お互いに協力し合うことを学び、そこから自分の執着心や向上すべき点が見えてくるのです。プロジェクトに参加し、互いに協力し合うためには、自我を捨てて謙虚さを身につける必要があり、その過程で嫉妬や傲慢などといった執着を取り除くことができるのです。個人的な見解だけにとらわれず、物事を全体として見ることを学びます。これらはすべて、修煉を促進し、私たちをより精進させるものとなります。

 面白いことに、あるプロジェクトや活動では、自分がやるはずのことが割り当てられていないことに気づきました。また、ある仕事をうまくできている同修が、突然、全く新しいプロジェクトを任されたこともありました。これは、私たちの修煉に磨きをかけるためだと思うのです。

 例えば、私が担当していたメディアのプロジェクトでは、翻訳を任されると思っていました。なぜなら、それは私が最も経験したことで、私にとってはやりやすいことだからです。しかし、意外にも、母国語でもない言語の編集者を任されることになったのです。

 師父の段取りは最終的に最善なのです。私たちは人心でやってもうまくいかず、師父の段取りされた通りにすれば、全てはうまくいくようになるのです。

 師父は、「これらの執着心を全て取り除き、清らかに修煉することによって初めて修煉を成就させることができます」[5]とおっしゃいました。

 この最後の時に、長い間取り除くことができなかった執着心を取り除き、心性を向上させるため、師父は私たちに大きな助けをくださっています。師父の計り知れない慈悲を感じました。この機会を大切にしたいと思います。

 この体験談を書くのは戦いのようなもので、何度もあきらめようと思っていました。ですから、ここで私を励ましてくれた同修たちに感謝したいと思います。そうでなければ、完成させることはできなかったのです。

 この嵐を乗り越えて、師父が段取りしてくださった道を歩み続けたいと思います。これは私の現在の次元での理解であるため、同修の慈悲なるご叱正をお願いします。

 師父に感謝いたします。同修の皆さん、ありがとうございます。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父著作:『精進要旨』「漏れるところなし」

 [3] 李洪志師父著作:『精進要旨』「環境」
 [4] 李洪志師父著作:『各地での説法十』「マンハッタン説法」
 [5] 李洪志師父著作:『轉法輪(巻二)』「道を修めずとも既に道にいる」

 (二〇二二年アルゼンチン法輪大法修煉体験談交流会原稿)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/12/20/453298.html)
 
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