文/中国の大法弟子
【明慧日本2023年3月21日】かつての私は、口を修めることを重視しておらず、何でも気軽に喋っていました。以前、ある同修は私に対して、いつもずる賢くて茶化すような振る舞いをしていました。ですから、私は心の中でその同修に嫌悪感を抱き、怒りに耐えられなくなったとき、他の同修の前でその同修の悪口を言いました。
ある時期、特に寝起きに胸骨の痛みが多くなったのですが、あまり気にせず、内に向けて探すこともしませんでした。ある日、「陰で同修の悪口を言うと、体が十字架で磔にされる」という言葉が頭に浮かびました。「ああ、そうなんだ。こっちの胸骨の痛みの原因は、他の空間の私の体が懲罰されているのだ!」と思いました。
最近、法を学んで、師父が「昔、僧侶は念を起こすと業を造るというので、これらのことを非常に重く見ていました」 [1]と説かれたところを読んだとき、前半の部分はとても分かりやすいと感じましたが、今までの学法ではその言葉をあまり気にしていなかったのです。実際の行動がなくても、心の動き一つ一つが業を作り出すことになり、深刻なことになるのですから、まして、私は実際に行動に移したので、どのぐらい業を作ったのでしょう! 本当に口を修めることを重視しないといけないと思いました。
今の私はもうその同修の悪口を言わなくなりました。時々、その同修の振る舞いが目に入ると、気に入らないときもありますが、それほど重く見ないようにしました。世の中にはいろいろな人がいるので、みんなが私の基準に符合しないのは当然のことです。まして、現在の末法の時期に、乱れている世の中で、どんな風にも振る舞う人がおり、さほど驚くことはないでしょう。
「自分の心をもっと広め、主意識を強め、定力を高め、外的なものに動かされないようにし、誰にも何事にも動じず、堂々としっかり自分を修めて、『上士』になることに努めよう」と思いました。その同修が私にひどい仕打ちをしたのは、かつて私は彼に悪い事をしたかもしれないし、かなり恨みを買っていたのかもしれません。今生はその借りを返さなければならないのです。今思うと、このことに出合い、一つの借りを返せたことは、とてもいいことだと思っています。
口を修めなかったことは、「忍」を重んぜず、トラブルの中で心性を高められず、業を作ってしまい、向上する良い機会を失ってしまったのです。しかし、修煉はそういうこともあるかもしれません。私はその同修に対する反感を放下するのに数年もかかりました。
口を閉じるのは難しくありませんが、心性が高くないと、黙るのはなかなか難しいのです。ですから、口を修め、修煉に余計な障碍を増やさないようにするためには、心を修めることが大切だと思います。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』