文/中国の大法弟子
【明慧日本2023年4月7日】大法修煉は美しく神聖であり、新しい宇宙の基準は無私です。現在、法を正す勢力はミクロの世界から人類社会の表面にまで進出しており、もし、疫病が神の按排したものならば、戦争や様々な災害も偶発的なものではありません。人類にとって、危険は一歩一歩近づいており、修煉の向上と世の人々を救う機会がますます少なくなっているので、この機会を逃してはなりません。そのためには、常に慈悲心を持ち、修煉のあらゆる機会を捉えなければなりません。また苦難の中で心性を高め、法に同化して法理を悟らなければなりません。
「修煉とは神の道を歩むことであり、あらゆる人心は障碍なのです。しかし、私たちの道は非常に狭く、少しでも油断すれば道から外れてしまいます。外れてしまうと、問題、場合によって大きな問題を引き起こします。戻ってこられなければ、未来永劫の悔いとなります」[1]と師父は説かれました。
正念だけが、私たちが成熟し、圓満成就するため、栄光を達成するための基本的な保証になります。
正念は、寛容、無私無欲、畏敬の念の表れであり、侮辱されたり傷ついたりしても、不満や憎しみを抱くことなく、冷静に向き合います。師父が法を正すことを手助けするために、大法弟子が行った正念は天地を動かし、宇宙の史碑に永遠に刻まれます。
人は、次元が異なれば考えや観念も異なり、思想の中に許容されます。人は修煉するとき、名声、利益、感情、怒りなどの執着に淡泊でなければなりません。そうすれば、観念は正念と対立し、思想観念(偽りの自己)は正念(真の自己)を排斥します。法理が明確でなければ、人心と正念の区別がつかなければ、自分の観念(偽我)が干渉し、把握できなければ、修煉の機会を失うことになりうるのです。
以前、建物を娘に無償で譲り、契約まで交わし、人為的に善行を行う高齢の同修に会ったことがあります。元旦には娘が親孝行しに来るだろうと思っていたのですが、大晦日から正月15日まで待っていても、娘からの連絡は一切ありませんでした。最初、娘がきっと訪ねてきてくれるのではと、一縷の望みを抱いていましたが、本当に期待が大きければ大きいほど、失望も同等に大きいのです。高齢の同修は表面上は修煉者でしたが、問題に直面しても内面を見ようとせず、長年の恨みから旧勢力に利用され、最終的に両目を失明させ、痛烈な教訓をもたらしました。
私には子供がいますが、普段のしつけがなっていないため、多額の金銭的損失を被り、債権者から借金を取り戻すために子供は訴えられていました。私は親として黙っているわけにはいかないと思い、息子の数百万元の借金を返済するために、お金を借りるしかなかったのです。そして、借金して、息子の債務を全部返済しました。当時、子どもは感動して涙を流し、両親の借金返済に協力すると誓いました。私は子供に過度な期待をせず、ただ一緒に借金を返すことができれば良いと思いました。しかしその後、息子は約束を守らず、一日中何もしなくなりました。長い失意の中で、私は恨みと憎しみを募らせ、心の底からもう二度と会いたくないと思いました。
長い期間の怨念と内心に向けて非を探さなかったせいで、私も旧勢力に隙に乗じられ、体は「大腿骨頭壊死」という正しくない状態に陥ったのです。借金を返すのは当然の法則です。その重圧で、時には大腿骨が痛くて歩けなくなり、仕事に行けないのに歯を食いしばって、子供のために不本意ながら苦しみに耐えていました。昨年末、ようやく最後の借金を完済し、心身ともにとてもリラックスできるようになり、幸せな気持ちになりました。
因果応報の関係に気づいたとき、晴れやかな気分になり、恨みや憎しみは人間の感情であることをようやく理解しました。
法理を理解した後、私の思想は浄化され、父子の関係が回復し、無意識のうちに体の不快な状態が消えました。これこそ、大法に同化することの昇華です。また、「病気になったら病院に行かなければならない」という観念は完全に解き放たれ、不正な観念が修正されました。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『再び棒喝』