中国法会|苦難に直面し、内に向けて探す(一)
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文/中国東北の大法弟子  

 【明慧日本2023年4月11日】

 慈悲で偉大なる師父、こんにちは!
 同修の皆さん、こんにちは!

 この第19回中国大陸大法弟子修煉体験交流会の場を借りて、私は迫害されている同修の救出に参加した経緯及び体得を書き出して師父にご報告し、同修の皆さんと共有したいと思います。

 一、突然やってきたトラブルの中で人心を見つけ出す

 2020年、私は地元の同修Hさんの救出に加わりました。その後、様々な事情により、それまで救出に携わっていた数人の同修が次々とチームから離れていきました。そのうちの1人であるDさんが去った後、今年のはじめ、突然救出に関する提案のメッセージを私の郵便受けに入れてくれました。内容は主に私個人に向けられた指摘や批判であり、言葉もかなり厳しいものでした。

 突如やってきたトラブルに直面し、一面はそれが試練であり、心性を保つべきだと知りつつも、人間の一面はやはり動揺してしまい、悔しさ、恨み、不満の気持ちが湧き出て、良い話を聞きたく、指摘を受けたくない人心が出てきました。

 当時、Hさんの救出にあたり、最後には私ともう1人の同修しか残っていませんでした。その同修は発正念および家族との連絡を担い、私は告訴状などの法律文書および当局の各部門に郵送する資料を準備し、専門家との交流、弁護士との連絡、同修との面会など、多くのことをしなければなりませんでした。

 トラブルを前にして、私がもっとも悔しく、不平に思ったのは「もともと救出には人手が必要なのに、参加しないばかりか、傍観者として欠点ばかり論争する。できるなら参加して、不足を補ってはどうか? 私一人ではどうしても能力も気力も体力も限界があり、何でもしなければならず、しかもよくしなければならない。よくできなければ非難され、損失が生じたら責任まで取らなければならない」ということでした。

 人心に沿って考えれば考えるほど、私は自分が理に叶っていると思い、Dさんに対して大きな不満を持つようになりました。そしてついに、同修に対する不満が私の表情にまで現れて、隣にいた同修に「誰が正しくて誰が間違っているなど、それを正して何になりますか?」と注意され、私はやっと冷静になり内に向けて探し始めました。

 Dさんは以前、救出に参加したことがあり、一時期は私とスムーズに協力し合っていました。彼自身も、「ある状態に長く留まっていて突破できなかったが、救出に加わってから修煉の情熱を取り戻すことができて、自身の向上と変化を感じた」と言いました。しかし、理由は分かりませんが、Dさんは次第に参加しなくなり、ついには救出チームから離れていきました。

 今思えば、Dさんと協力し合っていた頃、彼はよく、「自分自身をよく修め、心性を高めて、初めて私たちがやっていることに法の威力が現れ、より大きな作用をもたらすことができる。そうでないと、私たちがやったことは表面の常人の空間でしか作用せず、ひいてはまったく作用しないかもしれない」と強調していました。Dさんは内に向けて探し、心性を修めることを重視しているのに対し、私はこの方面が最も欠けていました。同修はまさに私が心性の向上を重視せず、着実に修煉していないせいで協力し辛くなったのではないでしょうか?! Dさんはチームから離れたものの、まだ関心を寄せており、問題に気づいたら直言し、法と同修のために思い、ありがたいことではないでしょうか?

 ここで肝心なのは、彼の指摘が正しいかどうかではなく、彼が取った交流の方法でもなく、トラブルを前にして、私が心を動じたかどうか、そして無条件に内に向けて探したかどうかが大事なのです。Dさんの厳しい指摘を受けて、私は初めて自分の執着と人心に目を向け、長い間深く隠されていた他人に触れられたくない物質の存在に気づくことができました。

 二、自我を放下し、積極的に救出に参加する

 年末、Dさんは顔合わせ交流を企画しました。私も交流を機に皆さんに救出プロジェクトの具体的な内容をもっと知ってもらい、同修間の誤解を解消したいと考えました。また、交流を通じて、より多くの同修が救出に関心を持ち、プロジェクトに加わることで全体の力が増すことを期待しました。当時、救出チームには私ひとりしか残っていなかったからです。

 交流の質を保つために、私は1日かけて交流の原稿を準備しました。しかし、いざ交流してみると、同修はみな自我への執着が強く、交流の雰囲気も穏やかさと純粋さに欠けていて、誰もが内に向けて探さず、一丸になるどころか、散らばる感じで、満足のいく交流の効果が得られませんでした。

 交流から1週間ほど経ったある日、Fさんが連行されました。普段、私はFさんとはあまり接点がなく、年末の交流にFさんとその親族2人も参加しましたが、その時、Fさんは沈黙のまま一言も発しませんでした。

 Fさんに対する迫害が起きた後、私は突然、それまで私個人を狙って起きたように見えたトラブルには、個人の向上の要素もあるものの、旧勢力と邪悪の要素が意図的に仕組んだものもあることに気づきました。それらは修煉者のまだ取り除かれていない人心と執着を利用し、同修間で対立と隔たりを作り、相互不信を引き起こし、救出プロジェクトに対しても消極的な考えを持たせたのです。そのため、迫害が起こった後、私たちは直ちに一丸となって同修を救出することができず、ベストの救出時期を逃し、最善の救出機会も逃しました。これは個人の修煉に漏れがあり、全体に漏れがあったため、邪悪がその隙に乗じて同修への迫害を強め、全体に損失を与えたのです。

 これらを認識した後、私はまず法に照らし自分を正し、自我を放下し、同修に対するマイナスの考えを捨て、同時に他の空間の隔たりの要素を取り除くようにしました。私はもう1人の同修と一緒にFさんの親族を訪ね、「私たちは力を合わせてFさんの救出に全力を尽くすつもりです」と、率直に伝えました。Fさんの親族も私たちの誠意に応じ、能動的に救助に協力してくれました。

 当時、Fさんの2人の親族は修煉状態が同修たちの期待に及ばず、多くの人心が現れていて、焦りや失望を感じさせられる場面もよくありましたが、私はできるだけ彼らの修煉状態を考慮し、もっと理解と包容力を深め、非難せず愚痴をこぼさないように自分に要求しました。

 もし、同修が自分の救出に有利だと思う意見や方案を受け入れず、あるいはその通りしたくない場合、落ち込まず文句を言わず、修煉者の心構えを保持しようと、自分にそう言い聞かせました。たとえ一時的に共通認識が得られず、協力できなくても、絶対に同修と対立したり、距離を置いたりしてはなりません。そうすれば、全体の力が弱まり、同修の救出も影響を受けてしまうからです。

 三、トラブルの中で人心をさらに取り除く

 認識できても、ある日、私はやはり心性を保てず、Fさんの親族と口論になりました。彼女は私の進度についていけなく、すぐに実行できないこともあって、ストレスが溜まるので強く要求しないようにと言い、「ついていけない、ついていけない」と繰り返し強調しました。

 それを聞き、私は少し悔しさを覚えました。「あなたを理解し、包容するためにかなり努力してきたつもりで、あなたを刺激してしまうかもしれないと恐れて、何も言わず、非難もしてこなかったのよ。それなのに、あなたは何を要求して、そう言わなければならないのか?」と私は思いました。説明を急ぐあまり、自分の感情をコントロールできず、話せば話すほど声が大きくなりました。そして、私が言えば言うほど、同修は耐えられなくなり、言い合いになってしまいました。実はその時、私が言ったすべての言い訳はみな、自分の人心を正当化するためのものでした。

 この出来事の後、同修は私を以前ほど信用しなくなり、私の言動に傷つけられました。私もすぐに内に向けて探さず、法に照らして自身を正すことをしませんでした。結局、Fさんの2人の親族は、同修と協力して自己弁護の方法を選ばず、弁護士を雇って一審を終えさせました。

 今回の衝突を振り返り、私はこう自問しました。「なぜ同修は私にそのようなことを言ったのだろうか? 私の同修に対する理解と包容が法の要求に達したのだろうか? 私が言った一言一言には、修煉者の善や慈悲があったのだろうか? 修煉者の基準を満たしたのだろうか? 純粋だったのだろうか?」

 師父はこのようにおっしゃっています。「わたしがいつも言っているように、ある人が他人のためだけを思って、しかも、自己の目的と認識を少しも抱かなければ、語る話は相手に涙を流させるのです。わたしは皆さんに大法を教えただけではなく、わたしの行ない方をも皆さんのために残していますが、仕事のときの口調、善の心、それに加えて、道理で人の心を変えることはできても、命令では永遠にできないのです!」[1]

 師父の説法に照らしてみると、私はまだまだほど遠いと思いました。自分が無私で利他的になっていると思っていても、実は完全に他人のために思う境地には達しておらず、自分の観念と認識を手放さずに自分の立場に立って、目的を持ったまま問題を考え、他人に要求していました。それに、攻撃的な行動や発言も多く、善が欠けていて、慈悲は尚更ありませんでした。同修がストレスを感じたのも不思議ではありませんでした。

 同修は、修煉していない常人家族からの圧力、同修内部からの圧力、邪党の迫害による圧力に直面しながら、自身の心性を修め向上していかなければならず、「誰が私の気持ちが分かり、理解してくれるのだろうか?」とこぼしたのも、今になってやっと理解できました。しかし、この話を聞いた当時、私は「あなたの肉親が迫害に遭っているのに、早く救出することを考えず、誰に甘えているのか?」と思い、同修の置かれている難しい状況を親身になって考えるどころか、焦りや怨みを覚えていました。

 同修のいかなる振る舞いも、彼女の現段階の修煉状態によるもので、現在の心性の表れであり、修煉の一つの過程でもあります。同修が自分の身内の救出に参加できるかできないか、するかしないかは、彼女自身の選択です。同修が自分の期待する状態に達していないからと言って、同修のことを否定的に考えてはならず、非難したり、怨んだりは尚更してはいけません。

 上記の経験を通して、私は、同修を救出する過程において、いかなる状況に遭遇しても、まずは内に向けて探して自分を修め、自分が修煉者であることを忘れず、他人に要求するのではなく、自分に心性の向上を要求すべきだと深く体得しました。法に符合してはじめて、私たちが行なっていることはもっと純粋になり、周囲の場も穏やかで慈悲に満ちたものとなり、その善の力が人に変化をもたらすことができるのです。私たちが修煉者の基準に達してはじめて、無限の大法は私たちに法の威力を見せて下さるのです。真に私たちを変え、向上させることができるのは、法なのです。

 (続く

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/11/18/451564.html)
 
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