文/中国の大法弟子
【明慧日本2023年9月20日】私は1993年に法を得た大法弟子で、師父の説法の講習会に2回参加させて頂きました。今日は、座禅に関する体験を話したいと思います。初めて足を組んで座ろうとした時から、ようやく両足を組んで座れるようになるまで、19年という長い時間がかかりました。「修」と「煉」の過程で心身ともに多くの感動的なことを経験しました。
修煉する前、私は体を動かすことは全然苦に思っていなくて、よく走ったり跳んだりして、私のことをよく知らない人は、私を体育の教師だと思ったりもします(私の職業は教師です)。しかし思いもしないことに修煉してから、座禅は私の修煉において大きな関となりました。
修煉を決意した瞬間から、業力は加速して表に出ているのか、しゃがむ時に両足を同時に曲げることができず、片足を曲げて、もう片方の足を伸ばさないといけず、そうしないと体が爆破しそうに苦しくなります。足首はよく捻挫していたのでふくらはぎの筋をよく捻って、体中が捻じれている気がします。腰を曲げることができず、肩や背中が鉄の塊のように固まって、左足を右足の膝の上に持ち上げることができません。
座禅の練習をする時、たとえ両足を組めなくても片足だけは組みたいので、あぐらを組んで座る自分が許せません。どうやっても両足を「Y」字型にして、左足は立てたままの状態で、右足は左足のふくらはぎまでしか上げられません。座禅するたびに全身が痛くて、「ギギギ」と1分間、そして1分間と、分刻みに続けました。
グループ煉功の時、みんなが足を組んで目を閉じるまで待ってから私は足をあげます。ある日、座禅の姿を同修に見られたくないのは虚栄心だと悟り、それはしなくなりました。そんな私の姿を見て、新しい学習者は「あなた、古い弟子に見えませんね」と言ったり、古い弟子たちは「ここで座らなくていいから、家に帰って煉功しよう』と言ったりしました。その時、私が思ったのは、古い弟子でもこんな状況でここに座って続けていることは、他の人にとって一種の励ましになれればいいな、ということでした。
はじめて「功を修るに路有りて、心を徑と為す 大法は無辺、苦を舟と做す」[1]を読んだ時、修煉の近道を見つけたような気がしました。それはつまり「心を修めて、苦を嘗める」ことです。座禅していると、苦を嘗めながら心も修めることもできて、得をしたと思います。師父の写真の前で手を合わせ、「師父、私のためにこのような場を設けてくださり、ありがとうございます」と言いました。座禅の1時間で同時に「苦を嘗めること」と「心を修めること」両方をさせて頂き、まさに一石二鳥です。
師父は「修煉者として、今後の人生の道は変わるはずです。わたしの法身が改めて段取りしてあげなければなりません」[2]とおっしゃいました。師父は私のためにそのように段取りしてくれているのなら、そのように煉功しましょう、と思いました。座禅する時、足がよく滑るので、私はバンドを腰にかけて足を固定させます。二つのサンドバッグ(合計10キロ)を足に置いたりします。座禅することができない代わりに動功を多くやって業力を除去しようとも思って、そうしました。ある日、第一功法を9回もやって、その後、骨がバラバラになったほど全身が痛くなりました(業力を消すという目標を達成したい気持ちが焦って、ついハードにやってしまった)。脚を曲げることができないため、私は跪いて学法しようとして、しかし膝の裏側が固くて跪くこともできなくて、肘で体の重さを支えてゆっくりベッドにもたれますが、長時間その姿勢を保つことができません。一言でいえば毎日、体にさまざまな不具合が出るのは日常茶飯事です。
これは師父が按排してくださった修煉の道だと思っているので、喜んで受け入れました。自分にはどれだけの業力があるか知りませんが、一つを取り除けばその分一つ少なくなるということだけを考えました。だから、時間があれば足を押さえたりしました。その頃、苦しいと思わず、嫌とも思わずに、痛みがあるからこそ業力を除去していると分かっていました。毎日多く収穫していると思いました。
それと同時に不安、落胆、痛みへの恐怖心、苦しいと思って止めたい気持ち、他の同修を羨む心などが生じたら、すぐ除去するように心掛けました。なぜなら、もともと業力が大きい体を持っているのに、これらの執着心を持ったら修煉はなおさら難しくなるのでは、と思ったからです。
しかし、そのように数年間経っても、座禅の姿勢はあまり改善できていません。各方面から見ても自分はとても精進していますが、なぜ座禅の関を突破できないかと困惑する時もあります。その疑問を師父に聞きたいと思いました。その後のある日、自転車で走っていると、頭の中で一つの声が響いて、「あなたは他の人より多く苦を嘗めるんだ」と言いました。師父はこのように私の疑問を解いてくれていると思うと、安心しました。家に帰ったらすぐに座って座禅して、早朝の夢に出てきた雪山を思い浮かべながら、「5分間座ることは、雪山を5メートル登ったことに等しい」と自分に言い聞かせました。
2003年のある日、朝起きて座禅する時、「もう10年も経つのに、まだこんな状態なのか」という思いが湧き上がって、無力感、かすかな酸っぱさが胸に浮かびました。すぐにそのネガティブな感情を押さえて、手印動作をしてから両腕を広げた時、一瞬にして入定しました。身体は噴火する火山のように天上まで登る光景が見えて、その光景が数十秒も続きました。この空間の身体はこのようであっても、他の空間で天地をひっくり返すような変化が起きた、ということを師父はご啓示してくれていると分かりました。感謝の涙が静かに流れて、心もほっとしました。
来る日も来る日も、座禅のたびに痛みに耐えなければならなかったのですが、苦しいと思わず、痛みの中で多くの業力を除去しているので、座禅が終わると達成感と安堵感に包まれています。
2012年5月のある日、業力除去の反応が強く出て、ベッドから起き上がれなくなり、何かが大きく変わろうとしていると感じました。一人暮らしをしている私は5日間外に出ず毎日ただ学法、煉功、発正念をして、明慧ネットの交流記事を読みました。5日目の夜に座禅した時、突然、両足を組めるようになり、一気に1時間も組めました。19年目にしてやっとできました。感謝の涙が流れました。
この経験を振り返ってみると、一歩一歩ここまで歩んで来て、いつでも「選択」に直面していると気づきました。正念で物事を思考するか、それとも人心が動いたか、いつでも、どんなことにおいても自分の選択次第です。
修煉者が遭遇することに偶然はありません。改善が必要なところには必ずそれ相応の試練が現れます。人それぞれ状況が異なるため、遭遇する関や困難も異なります。自分の状況に踏まえてただ正念で対応して、事の結果に執着してはいけません。関をよく乗り越えたかどうかにかかわらず、それは修煉の過程そのもので、くじけてもすぐに立ち上がり、再出発すればいいです。但し師父と大法を信じてしっかり修煉していく決心を揺してはいけません。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「法輪大法」
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
(明慧ネット第24回世界法輪大法デー入選文章)