師父の2編の新経文の感想
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文/海外の大法弟子   

 【明慧日本2023年10月8日】今日、私が皆さんと交流したいのは、師父の2篇の新経文を学んでからの心得についてです。

 一、新経文による震撼

 率直に言うと、新経文を読み終えて受けた最大の震撼と感想は、謙虚さ、感恩および畏敬の念でした。

 1)謙虚さ

 謙虚に従うこと、師と法を敬うことは、大法弟子が有すべき態度と心性であるだけでなく、広大な宇宙の中のあらゆる生命が有すべき基本的な特質です。なぜなら、すべての正と負の生命、宇宙を構成するあらゆる粒子と特性はみな、大法が造り出したものだからです。

 しかし最近、師父は連続して2篇の経文を発表され、学習者の人心、人間の念、人間の情、怨恨心、嫉妬心、および自我膨張の問題を厳粛に指摘されました。これはもはや極端に走っている少数の学習者に限る問題ではなく、私たち全体に、師に対する尊敬の念が足りず、大法に対する謙虚さが足りないという修煉における逸脱(ズレ)が少なからず現れている可能性が存することであり、ただ程度の差があるだけです。そのため、師父の経文を読み、私は自分が大法と師父に対して常に謙虚で敬虔な心を持っているかと、改めて自分を真剣に見つめました。

 2)感恩

 真に修めている大法弟子であれば、師父による慈悲なる済度に深く感謝の念を抱いているはずです。今回の新経文において、以下のことが再び明らかにされました。つまり、修煉中、および法を実証する中で遭遇したすべての苦悩、魔難のいずれも、私たちが生々世々に造った業力、借りた債務によるものです。師父は私たちを済度するために、私たちの無辺の罪業を黙々と引き受け、「しかも、あらゆる手を尽くしてあなたの罪業を帳消ししようとしている」(『険悪を遠ざけよう』)のです。さらに、師父は法理をこのように明示されています。「あなたが思っている如何に大きな魔難にしても、苦痛にしても、いずれも良いことです。それはあなたが修煉したから現れたことです。魔難の中で業力を消すことができ、魔難の中で人心を取り除くことができ、魔難の中であなたを向上させることができます」(『各地での説法八』「二〇〇八年ニューヨーク法会での説法」)。見えないところで私たちのためにすべてを黙々と按排し、業力を引き受けて犠牲を払い、法力で私たちを清め、私たちの新しい未来を造っておられるのは師父なのです。

 師父は大法弟子に借りなどなく、弟子が師父に借りがあるのみです。しかし、師父は一度もその辛労について言及されたことがなく、ひたすら私たちに精進を促され、法を実証して衆生を救うように念押しされると同時に私たちが旧勢力によって仕組まれた罠に堕ちることがないように、誤りを指摘されてきました。

 3)畏敬の念

 佛法には慈悲があり、威厳もあります。師父の2篇の経文は口調が厳しいだけでなく、強調のため、多くの感嘆符も使用されています。個人的に思うには、師父は表面の空間において厳粛に弟子たちの誤りと不足を指摘されているだけでなく、同時に別の空間において、真に修めている弟子たちがこれらの方面で蓄積してきた業力と魔を打ち払い、将来起こりうる危険を解消して下さっているのです。

 新経文がこれらの混乱した状況の背後にある真の原因を明らかにしたことによって、この一難も解消されたに等しいのです。では、これに関わった学習者たちの業力はどうなるのでしょうか? 言うまでもなく、師父は黙々と引き受け、済度できる学習者たちのためにこの巨大な業を消して下さったに違いありません。

 しかし、師父のこのような洪恩を受けつつも、弟子や学習者が速やかに改めることができず、佛法の威厳を敬わず、師父の慈悲に感謝することができず、正法の基準についていけないのであれば、旧勢力とともに消え去るしかありません。

 二、法理をもとに得た新経文に対する理解

 まず、新経文を読んで深く悟らせて下さったのは、修煉であれ、法を実証することであれ、表面的には私たちが自発的に修煉し、能動的に法を実証しているように見えますが、実際のところ、すべては師父が黙々と用意されていた軌道と台本なのです。私たちが自ら進んで人間から抜け出し、神に向かっているように見えますが、実際のところ、師父が私たちを掬い上げて清め、私たちを天上に向けて押して下さっているのです。

 ただ、人間の迷いが破られることがないように、宇宙の一層一層の法理に符合するように、さらには旧勢力にこれ以上の混乱を作らせないために、師父は偉大なすべてを直接弟子に授けることができず、私たちが各プロジェクトの中で「法を実証する」ことを按排されました。この法を実証する過程で、私たちは業力を消して心性を高め、より高い次元の生命が持つべき心性と本性を取り戻すと同時に、法を実証することを通じて師父が按排して下さった数々の栄光を得て、自らの天体の生命を救い、「失わないものは得られず」(『轉法輪』)の法理に符合することもできます。はっきり言えば、私たちが大法に対して何かの「貢献」をしているのではなく、すべては師父が私たちに賜った恩寵です。師父は私たちに借りがあるどころか、私たちは師父の無限のご恩を授かっているだけなのです。この事実をはっきり認識できれば、私たちはプロジェクトの中で私心を持って損得を気にしたり、意気揚々になったりすることがなく、また、同修の前で誇示したり自惚れたりすることがなく、同修を見下したり偉そうな態度を取ることもないでしょう。なぜなら、私たちはみな師父によって掬い上げられた存在であり、誰かがより優れていることはないのです。すべての能力、すべての法を実証できる行いは師父からの賜物であり、私たちはどうして師父の造りに対して妄言を吐いて批判したり、あるいは互いに優劣を競うのでしょうか?

 次に、新経文は少数の極端に走っている人を指しているように見えますが、私が悟ったのは、程度の差こそあれ、かなりの数の学習者がこのような状況にいるのです。メディアのプロジェクトを例にしていえば、多忙で緊張するニュース製作の仕事をこなす中で、トラブルや試練が突然やってくるとき、私たちは常に法理に基づいて冷静に対処し、正念をもって毎回の試練や関を突破できるようにするのは難しいのです。

 時には、真剣に心性を修め、関を突破する努力をせず、ただいい加減に済ませ、あるいはそのまま人心、人間の念、人間の情をもって対処したりするケースさえあります。その結果、消すべき業力が消されず、取り除くべき人心が残ったままの状況で、人心をもって対処したがために、より多くのトラブルやさらに大きな試練が派生し、それによって自分がますます大きな不満や不公平に思う気持ちに陥り、怨みや嫉妬を抱くようになり、それが積み重なって怨恨に変わっていきます。

 しかし、この「恨」は一方通行のメガネのようなもので、それをかけると外ばかり見えて、外に向けて求めるようになり、内に向けて探し自らを正すことができず、ますます新宇宙の法理から乖離していきます。同時に、この「恨」は共産邪霊に属する物質であり、それが私たちの空間場に溜まると、邪悪や魔を招きやすく、自身の修煉と正念に対する妨害を増大させてしまいます。

 「恨」はまた、共産邪霊が衆生を扇動して天地と戦わせる激情の燃料でもあります。恨みを抱けば、心が不安定になりやすく、不満があるとすぐに爆発してしまうだけでなく、理性を失って恨みや邪霊に振り回され、より大きな魔性を育み、他人の一挙手一投足を意図せずに妖魔化し、同修の修煉や成績を妬みかねません。

 しかも、「恨」は、道に迷った人の自我の膨張を増幅させ、「他人はみな間違っていて、私だけが目を覚ましている」、「全世界が私に借りがある」と感じさせ、さらに自己を正当化した上で、極端な言動で人に報復するように仕向けます。甚だしきに至っては神佛に対する畏敬の念を忘れ、大法と師父への感謝を忘れ、終いには言うべきでない大逆無道の言葉を口にし、旧勢力に弱みを握られて魔道に引きずり込まれ、自分が何千年も待ち続けてきたことを台無しにしてしまいます。 

 また、新経文を読むことで、私は旧勢力による迫害に対する新たな認識を得ました。中国本土では、迫害は中共邪党による暴力的な弾圧と精神的苦痛です。海外では、邪党による直接的な迫害がないものの、旧勢力が用意した非常に察知しにくい迫害のメカニズムがあります。それはほかでもなく、人心、人間の念、人間の情なのです。

 法理から私たちが分かったように、師父の法を正す道が旧勢力によって強引に妨害され、多くの望ましくない按排を加えられました。個人的に思ったのですが、旧勢力は何千年もの輪廻転生と歴史の中で、すべての人体に人心、人間の念、人間の情を強引に注ぎ込みました。これらの後天的な観念と物質は、私たちの骨髄と遺伝子に深く根付いています。私たちが常に覚めた主意識の下で法を師とし、法理をもってトラブルに対処し、自分を浄化することができなければ、旧勢力が手配した人心や人間の念に沿って対処することになり、結果として問題とトラブルを解決することができないだけでなく、却ってそれを拡大し、より多くの業力と人心を蓄積してしまい、師父が按排して下さった向上からさらに遠ざかってしまうことになります。

 そのため、人心、人間の念、人間の情は、実は旧勢力がすべての人体に配置した蝕むメカニズムであり、修煉者を下方に引きずり込むように絶えず稼働しており、肝心な時に私たちに人心で問題を見るように惑わせ、問題の背後にある真実と解決方式を見えなくさせ、自滅の道を歩ませるものです。

 また、師父は新経文の中でもう一つの天機を開示されました。師父は「これは末後のとき衆生が救い合っているのです」(『険悪を遠ざけよう』)とおっしゃっています。

 私の個人的な限られた次元での認識では、この「救い合い」は、少なくとも三つの方面をカバーしています。一つ目は、大法弟子が真相を伝えて衆生を救うことです。

 二つ目は、救われた人々の喜びと正念もまた、大法弟子がより積極的に自分を修め、法を実証するように促します。たとえ衆生が真相に抵抗して救われなかったとしても、真に修めている大法弟子であれば、その過程で必ず内に向けて探し、不足を見つけて心性を高めていきます。こうして見れば、衆生もまた、ある意味では大法弟子を助けているのです。

 三つ目は、大法弟子は法に則って交流し、互いの欠点を指摘して正念を持つように励まし合うことで、これも救い合いの一種の表れです。

 そこで、師父が「これは末後のとき衆生が救い合っているのです」(『険悪を遠ざけよう』)と仰ったのは、師父の無辺の知恵のもう一つの現れだと思います。師父は迷いを破ることができず、世間で直接手を出して大法弟子と衆生を救うことができないため、弟子たちが人間社会で法を学び、法を実証し、真相を伝えるように按排されました。こうして、神の使者と衆生は迷いの中で自らを救い、互いを救い、危難から抜け出ることができるのです。そしてこの過程で、師父はすべての栄光と威徳を私たちに与えて下さいました。これはすべての宇宙の生命を超えた洪大な知恵と慈悲なのです。

 師父は黙々として一切の栄光、一切の利益を弟子たちに与え、弟子たちが旧勢力によって仕組まれた幾重もの危険をくぐり抜けるのを黙々として守り、そして黙々と無辺の宇宙を浄化し、無量の衆生を救われているのです。辛労を厭わず、見返りを求めず、不平の一言も口にせず、これが弟子たちへの慈悲なる師父が身をもって示されたお手本です。

 三、学法して内に向けて探す

 まず、新経文を読んでから、自分の大法の修煉形式に対する認識が浅くて、安定していないことに気づかされました。

 師父はこのようにおっしゃっています。「苦を嘗め難に遭うことは業力を取り除き、罪を除去し、人体を浄化し、思想境地と次元を高める絶好の機会であり、大変良いことです。これは正の法理です」(『精進要旨三』「最後になればなるほど、精進すべき」)。

 しかし、多忙なメディアの仕事の中で、私たちは常に冷静さと正念を保つことができず、容易に人心、人間の念、人間の情で対応してしまいがちなため、その結果、不満や怨みがますます溜まり、ますます強い闘争心が生じ、ますます人や物事を目障りのように見てしまいます。あるいは正念が足りなくて、ついつい仕事をやめようと考えます。

 例えば、常人のメディア会社から大法弟子が運営する真相を伝えるメディア会社に移ってきてから、私は11年間フルタイムで働いてきました。その過程で多くの試練と葛藤を経験し、何度も辞めようと思ったことがあります。ときには、どうしても心性の関を乗り越えられないとき、「私は人生の黄金期の十数年をここに貢献した。メディアにはもう借りがない。卒業してもよい」と、人心でこう思ったことがあります。

 しかし、今回の経文を読んで、私は恥じ入りました。真実は全く逆で、私がメディアに借りがないのではなく、私はいつまでも師父のご恩に借りがあり、報いきれません。表面的には、私はメディアの中で11年頑張ってきましたが、実際には師父は11年も私を見放さずにメディアに留まらせ、何度も何度も慈悲深く啓示を下さり、業力を取り除き、私の心性を向上させ、私が使命を果たし、命をもって交わした誓約の道をよく歩むことができるように、私を引っ張って下さってきました。

 常人はよく、「労多くして功少なし」と言いますが、真相を伝えるメディアの中で、正確に言えば、私たちには労多くして功少なしどころか、すべては師父のご心労のみです。もし私が本当に人心に突き動かされて、かっとなってメディアから離れたら、自分に永遠の後悔と悲劇を残したでしょう。

 第二に、新経文は私に、「メディアの仕事に長く携わってきて、自分は次第に人心、人間の念、人間の情を用いて大法弟子が立ち上げたこの真相を伝えるプロジェクトを扱い、ここを常人の仕事として扱っているのではないか? 意図的、あるいは無意識的にメディアの中で名声や利益を求めていたのではないか? そのために待遇が不公平だと思ったり、文句を言ったりしていたのではないか?」と反省させられました。

 特に、私は常人のメディア会社を出ており、家族も修煉していない常人なので、彼らはよく常人の会社の待遇、福利厚生、制度などをもって私の現在の仕事と比較し、聞いてきたりします。その際、私も心が動じ、年功序列や給料、役職などを気にしていたのではないでしょうか? 正直なところ、そのような人心がなかったとは言えません。幸いなことに、師父の保護の下、そうした人間の念はすぐに消えました。

 第三に、新経文は私たちに、師父は私たちに何の借りもないことを教えてくださいました。私はこのように悟りました。真相を伝えるメディアと私たちが法を実証する道はみな、師父が按排されたもので、実はメディアも私たちに借りがありません。私たちがプロジェクトに携わる中で遭遇した一切の不公平、不平等、苦悩とトラブルはみな、師父が按排された向上の機会であり、私たちが人心で対処するか、あるいは法理と正念で善処できるか否かだけなのです。

 従って、プロジェクトの中でトラブルに遭い、不満を覚えた時、こう思うべきです。プロジェクトは私たちに借りがなく、プロジェクトの責任者も私たちに借りがなく、すべては大法の精妙な按排であり、私たち自身がまだ修煉に対して完全な認識を得ておらず、法を実証する形式を正しく理解しておらず、さらには師父の広大な佛恩に報いる心が足りないだけなのです。

 第四に、新経文を読んでから、私はいつも自分の視点に立って正法を理解し、しばしば正法の視点から自分の役割を理解することを忘れていることに気づかされました。

 実は、正法の角度から、私たちは「師父はいかに苦心して按排を行い、私たちを済度されようとしているのか」と考えるべきで、そこから感謝と畏敬の念を抱くようになるはずです。

 同時に、正法の中で私たちが何をすべきか、どうすればそれを円融できるかを考え、そこから利他的な慈悲と円融できる知恵を持つようにすべきです。そして、法を実証する魔難の中で、いかにして正しく認識し、正しく対処できるかを考えて、師父が按排して下さった修煉の道を着実に歩み、さらには正念と威徳を持つようにすべきです。

 第五に、新経文は私に、修煉者は生命の出所がどんなに高くても、大法の前では宇宙の中の卑しい存在であり、必然的に師父および大法に対して謙虚になり、感謝と畏敬の念を抱き、必然的に誰が主で誰が従か、誰が尊く誰が劣るかが分かるに違いないことを悟らせられました。このような生命は間違いなく宇宙の幾重にもある次元に存在する法理に符合し、自らの生命格(神格)を保つことができ、必然的に尊大ぶって、師と法を軽んじる戯言を口にすることもないでしょう。

 反対に、天法をむやみに論じ、師を敬わない生命は、旧勢力が人心、怨み、妬みを通して配置した堕落の罠にまんまと嵌り、一歩一歩と戯言や狂言の中で自滅していき、非常に残念なことです。

 四、反省

 新経文が指摘したあの人、および先日明慧編集部が「へつらうことと自らの心から魔が生じること」の中で言及した「最近、ある台湾の新しい学習者はいい例です」には、実は多くの類似点があり、私もいくつかの点について反省させられました。

 第一に、同修がどんなに精進し、どんなに正念が強く見えても、同修の言動が法に則っているかどうかを常に法理を用いて判断すべきです。

 師父はこのようにおっしゃっています。「誰が本当にこの修煉団体を破壊することができるのでしょうか? 誰がこの大法を破壊することができるのでしょうか? 誰にもできず、実践でこれが証明されたのです。私は話したことがありますが、こういうことであり、妨害されたのは執着のある人で、法を破壊することはできません。悪い作用を果たしえるのは内部の人だけです」(『各地での説法十三』「二〇一四年サンフランシスコ法会での説法」)

 大法を破壊するよく見られる形式は、「正より邪へと変わる」、「正と邪が交ざり合う」であると私は見てきました。従って、私たちは常に法理をもって同修および自身の言動、一思一念を測らなければなりません。

 第二に、同修が膨張する人心の妨害を受けることがないように、そして同修の修煉を妨害することで業を造ることがないように、同修に諂ったり煽てたりせず、同修の人心、人間の念、人間の情を養わないようにすべきです。

 第三に、法を師とすべきで、他人をまねて修めるのではなく、しっかりと法に則って悟り、修め、同修との交流内容や天目で見えたものに頼るのではありません。同修への依存と崇拝は、同修を妨害し、迫害したがる旧勢力に口実を与えることになります。

 第四に、同修間に現れた不平や怨みに対して、直ちに善意をもって気づかせ、人心や人間の情でそれに同調したり助長したりせず、人心の凭れ合いにまで発展させてはなりません。逆に、邪霊に付け入る隙を与えないように、私たちは理性的に耳を傾け、相手が共産邪霊の「恨み」と「嫉妬」の要素を取り除くことができるように助力すべきです。

 第五に、極端に走っている人に対して、私たちは見ず聞かず、好奇心も持ってはいけません。行動や思想の両面においてそれらに居場所を与えず、彼らが自滅するようにすべきです。「一つの心が動かなければ、全ての変動を制することができる!」(『各地での説法五』「二〇〇五年カナダ法会での説法」)。

 結び

 新経文を読んだ後、私は改めて大法の博大さと奥深さ、師父の無辺の知恵と慈悲を悟り、そして大法弟子が立ち上げた真相を伝えるメディアの神聖さと非凡さを実感しました。師父は私たちのために、目に見えるものと見えないもののすべてを用意され、恩恵を与えて下さり、何の見返りも求めておられません。他にも言葉では表現しにくいものが多く、ここでは触れませんが、法理を用いてメディアの仕事を振り返てみると、いくつかの感慨を得ました。

 まず、私たちは今生で大法に出会い、法を実証できる万古にない機縁をもっと大切にすべきです。

 次に、難関に遭遇したとき、無意識的に後天的な人心や人間の念に沿って考えたり、不平を言ったり、憤ったりしてはなりません。代わりに心を静め、正念と法理をもって目の前の関や難に対処し、毎回のトラブルや試練、難関を私たちを浄化してくれる聖なる泉、私たちが世間から抜け出せるように導いてくれる梯子だと考えるべきです。

 さらに、私たちは常に正法の観点から自身を測り、「大法は私に何を求めているのか? どうすれば円融と均衡の役割を果たすことができるのか?」と自問すべきです。同時に、師父への感謝の心をしっかりと持って、日々修煉の道をしっかりと歩んでいくべきです。

 最後に、周りのすべての同修とともにいるというこの聖なる縁を大切にしてください。身近にいる同修は、私たちの過去の「戦場での戦友だった」かもしれません。過去にどのような恩讐があろうとも、今世の仕事においてどのようなトラブルがあろうとも、今日はこうして再び集まり、心を一つにして師父に随い、この末後の衆生が救い合う聖戦に参戦できることは、前例がないだけでなく、永遠に朽ちることもないことでしょう。

 以上は私の新経文に対するわずかな心得です。次元に限りがあるため、適切でない部分があれば、同修の慈悲なるご指摘を宜しくお願いします。

 師父に感謝し、同修に感謝します。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/9/12/465206.html)
 
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