文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年1月18日】同修との会話の中で、あるいは同修の修煉体験文章の中で、いつも、「自分は修めることができない。長年法輪大法を学んでいるのに、向上していない。体が修煉者のあるべき状態から徐々にずれてきている」という話をよく見聞きします。修めることができる、できないということは奥深い難解なテーマであり、多くの要素、あらゆる側面に関わっているのです。私自身は修めることができるとは言えません。ここでは一つの方面からこの問題を話したいと思います。
個人的には、ある物事、問題、トラブルが生じたとき、修めることができない人は、習慣的にその物事の表面の現れに陥り、その表面上で正しいか正しくないかを論じ、自分が正しいと思ってしまうことが多いと思います。一方、修めることができる人は、その物事に陥らず、その物事の表面から一歩外に出て、その物事の発生が自分のどのような心に触れたか、そこから何を修めなければならないのか、何を達成できるのかなど、内に向けて探すのです。
修煉者は物事の表面に留まらず、その現れた表面から自分の執着を見つけ、どこを修めるべきか、どこを向上する必要があるのか、この物事を通して何を達成させられようとしているのかなど、このように考えるべきです。そうすると、トラブルを作った人は、師父のご按排で私たちが成就することを助けてくれる人なのかもしれません。同時に、トラブルを作った人が私たちの業力の転化を助けてくれていると思います。このようなことが起こると、トラブルを作った人は機嫌が悪いかもしれませんが、その人の不快、不幸は、私たちの業力によるものかもしれません。
師父は『轉法輪』の中で、「なぜなら業力が誰かのところに落ちていれば、その人は必ず辛い思いをするからです。これは間違いないところです」、「本来良いことなのに、相手は許してくれようとしません。実は、本人自身はそうとは知りませんが、あなたの業の消去に手を貸してくれたのです」と説かれました。
それでは、私たち修煉者は相手に感謝すべきではありませんか?
修めることができる人は、毎日どんな人に会ったか、誰が何を言ったか、何事に遭遇したかなど、その中から自分を向上させる要素を見つけて、自分を修めるのです。修煉者であれば、いつもあなたを怒らせる人、あなたに不満を抱く人、あなたを軽蔑したり嘲笑したりする人、あなたを混乱させてからみつく人、あなたの名、利、情を傷ついても悪いと思わない人、あなたがいくら代償を払っても認めず理解しない人、あなたが正しいのにあなたが間違っていると言う人、これらの人々はあなたを神の方向へ押しやり、神になる手助けをしているのです! このすべては、あなたが修めることができるかどうか、修煉をしたい気持ちがあるかどうかにかかっています。たとえ修煉する前に起こった恨みであっても、その出来事はあなたの借りを清算するためか、あなたに徳を与えるためか、あなたの業力の転化を助けるためかのことであり、最終的に修煉者のあなたが神になるのを助けるためではないでしょう? それでも恨むのですか? 相手に感謝すべきでしょう。
しかし、多くの場合、修めることができない人は、このように考えないのです。常に物事に対して、正しいか正しくないかの中に陥り、常に自分が正しいと感じ、心のバランスが取れず、不満を生じます。物事の表面だけを見て、常に自分が正しいと感じるとき、慣性的な観念で修煉の向上を妨げるのです。常に自分が正しいと思うなら、どうやって修めるのですか?
「自分は修煉者であり、他人と張り合ったりしない」と考える修煉者がいます。このような考え方は、一見高尚で心性を守っているように見えますが、根底には「相手が間違っている、自分が正しい」という考えが残っています。例え、相手が間違っていても、私たちに神に到達するのを助けてくれているのであって、神に至る道を歩む上で一役買ってくれているのだから、私たちは心の底から相手に感謝しなければなりません。しかも本当にこのように考え、実行できれば、邪魔するものがなくなります。それこそ本当の修煉になります。
師父は『ヨーロッパ法会での説法』で「私の言った話をしっかり覚えてください。あなたに責任があるかどうかに関わらず、あなたは自分を探してください。必ず問題が見つかります。もし、このことがあなたと絶対に関係なく、あなたが取り除くべき心を持っていなければ、このことがあなたの周囲に発生することはめったにありません。もし、あなたがこの心を持っていなければ、トラブルを引き起こすことはありません。あなたの修煉に責任を負わなければなりません。トラブルがあなたの身に、あなたの周辺、あなた達の間に現れれば、恐らくあなたと関係があり、あなたに取り除くべきものがあるはずです。あなたのせいであるかどうかは関係なく、私の法身はあなたの心を取り除く際、このことがあなたのせいであるか、または彼のせいであるか問わないのです。あなたにこの心がありさえすれば、あらゆる方法を尽くして、いざこざに遭わせ、まだ取り除かれていない心を認識させます。しかし、あなた達はそこでまだ「これは私のせいではない」と言い合い、或いは『私は法を守っている』と思い、彼も『私も法を守っている』と思っているのです」と説かれました。
修めることができる、できないというのは奥深く難い話題です。上記は、現段階での個人的な浅い理解であり、間違っているところがあれば、同修の慈悲な指摘をお願いします。私はこの記事で、より多くの同修が、この方面での体得についての書き込みを書くように促し、れんがを投げて玉を引き寄せる(自分の未熟な意見をまず述べて他人の価値ある意見を引き出す)ことを願って、交流を通じてともに向上するためです。ありがとうございました!