【明彗日本2024年11月25日】(前文に続く)
中国人の高齢の法輪功学習者(以下、学習者)の多くは、このような開放性や寛容さを持たず、表情は冷たく、笑顔が少なく、どこか争いの意識が隠れています。自分がまだ役に立つことを証明したがり、若者に取って代わられるのを嫌がっています。これも邪党が植え付けたイデオロギーの一部です。邪党は国を優先し、家族より、国を優先し、栄光を得る最後の瞬間まで奉仕することが名誉だという歪んだ考えを植え付けてきました。多くの学習者は、忙しくしていることが精進だと考えており、人との交流やコミュニケーションを軽視し、家族との口論も絶えず、学法や煉功も保証されず、仮に行っても心が落ち着かず、その結果、深刻な病業の状態が生じてしまっています。
問題や矛盾が生じた際、西洋の学習者の多くは理性的に分析し、非常に率直に自分の考えを表現し、他者の立場に立って、コミュニケーションを取ろうとします。多くの中国人学習者は感情的になりがちで、物事を白か黒かで判断する傾向があります。問題が生じたときには、必ず誰か一人が間違っていて、その人を追い出せば問題は解決すると考えるのです。そして、他人に軽々しくレッテルを貼り、あたかも裁判官のように振る舞います。このような極端な思考は、中共の歴史によって作られた影響であり、党文化の一部です。
ある西洋の学習者が、この違いをはっきりと指摘しました。彼の言うところでは、2人の西洋人が矛盾を起こした場合、状況に応じて問題のどこが間違っていたのかを具体的に分析し、お互いに話し合って解決し、問題は解消されます。しかし、2人の中国人学習者が矛盾を起こした場合、相手を避け、問題を集団の中で拡大させ、それぞれの周囲の人を自分の立場で説得しようとします。こうして修煉団体の中で争いが起こり、党文化の処理方法に従い、同修間の偏見や憎しみが増幅され、旧勢力の全体を乱す目的にぴったりと当てはまってしまうのです。
地元には西洋人の家庭学法グループがありますが、そのグループを設立した二人の西洋人学習者は、昨年末に引っ越し、住所を中国人同修に知らせませんでした。これは後者がグループに参加するのを避けるためです。実際、たくさんの中国人同修は、英語の『轉法輪』を読むのが流暢ではなく、わからない単語があっても意味や発音を調べず、段落を読み、わからない単語に出会うとそこで止まり、あたかも誰かが訂正してくれるのを待っているかのようです。これが、もともとスムーズであった英語での学法環境を妨げています。法を敬うためにも、中国人学習者は法の勉強と英語の勉強を分けるべきです。集団学法の場では、他の人があなたの英語力向上を手助けする義務はありませんし、英語版『轉法輪』は英語を学ぶための機会ではありません。これは自分に対しても、西洋人学習者に対しても無責任であり、皆の時間を無駄にするので不適切です。中国人学習者の自己中心的な行動は、多くの西洋人学習者に理解されず、距離を置かれる原因となっています。現在、多くの西洋人学習者が大グループでの学法に参加していません。
インド、フィリピン、マレーシアなどの東南アジア諸国の移民と比較して、中国からの移民の英語力は一般的に劣っていることが多いです。香港や台湾の学習者は、伝統文化や礼儀においても非常に優れていますが、中国本土の学習者はどちらかと言えば急進的な傾向があります。人間の偏見や先入観を捨て、学び、交流することが必要です。
西洋人は、中国人の内向的で控えめな儒教的文化の特質を理解できないことが多く、表情が少なく、さらに英語の語彙が初級レベルだと、軽蔑の念を抱くことがあります。一方で、中国の移民は西洋人を活動的で浅はかだと感じ、率直で単純な態度を見下す傾向があります。
西洋の中産階級は、一般的に文化に敏感であり、ヨーロッパや、さらに中国の歴史にも通じています。一方、中国の移民が政府関係者や大企業の幹部を対象に神韻を宣伝する際、語彙が少なく、基本的な単語しか使えない場合、相手に『十分な教育を受けていない』という印象を与えがちです。1990年代に海外に出て、政府や大企業で多くのキャリアを積んだ中国の高齢の学習者の中には、大法のプロジェクトに参加してからも、強い優越感を持っている人が多いですが、非常に初級レベルの英語を使っています。実際のところ、中国人の考えは非常に豊かであり、多くの学習者は高等教育を受けていますが、言語が追いつかず、コミュニケーションの質や深さが影響を受けているのです。
古い学習者が、異なる文化を超えて交流することの重要性を認識し、心を開き、自分の経歴やプライドを捨てて、謙虚に若い学習者と交流し、西洋の言語や文化的な礼儀を学べば、物事はよりうまく進むでしょう。若い学習者も、大法のプロジェクトに責任を持つという姿勢で、善意をもって古い学習者の問題を指摘し、彼らを大切にし、法の上で真心と善意をもって交流し、学び、彼らの経験をしっかりと聞くことができれば、あの時代の中国の歴史をより深く理解でき、それが真相を伝えて衆生を救うための貴重な素材となります。結局のところ、彼らはあの時代の中国歴史の生き証人であり、彼らの不良な習慣を寛容に受け入れ、年齢の違いを気にしないようにするべきです。この空間での年齢は、元神の年齢を表しているわけではないのです。お互いに協力し、知恵を分かち合い、長所を取り入れて短所を補うことで、必ずや隔たりは消え、大法弟子の集団的な協力の法力が顕れることでしょう。
最近、地元でこんなことがありました。ある留学生の母親が突然中国国内で強制連行され、5年の刑を宣告されました。その息子は一人で海外で勉強していましたが、学費が足りず、休学手続きをし、生活にも困っており、急いで住まいを探していました。このニュースは一瞬で修煉者の間に広まりましたが、学習者たちが最初に考えたのは『誰が彼を受け入れるか』で、責任を他人に押し付け、最終的には誰も彼に住まいを提供しませんでした。この留学生も難民申請を考えていましたが、補導員は彼に大きなプレッシャーを感じ、彼が普段から大グループの学法に参加せず、活動にも参加していないため、学習者ではなく、ただ身分を得るために来たのだと見ていました。私はこの学生になぜ大グループに来なかったのかを尋ねると、彼は一度来たが、良い印象を受けず、もう行かないと答えました。最終的には、同修の助言で親戚から学費を工面しましたが、彼は大法修煉の集団から遠ざかり、中国から持ってきた大法の書籍もすべて学法のグループに残し、行方不明となりました。この出来事から、神韻のチケットがうまく売れないもう一つの原因として、慈悲が足りないことを思い起こしました。
私も最初にこのニュースを聞いたとき、十分に対応できませんでした。家に空いたベッドがあったにもかかわらず、昼間は仕事、夜は学法と煉功で休むことを優先し、この中国人留学生の修煉が中途半端だと聞いて、拒否感を抱いてしまいました。結局、同修に頼まれて面会い、彼を食事に誘って簡単に話を聞き、状況を大まかに理解した上で、1,000元を渡して終わりにしましたが、本質的には適当に済ませただけでした。1か月後、彼はそのお金を返してきました。振り返ると、彼には確かにいくつかの悪い習慣がありましたが、彼は大法弟子の子供であり、13歳のときに母親が強制連行され、そのために礼儀や対人関係において十分でなかったのだと気づきました。異国で一人で生き延びようと奮闘している彼の状況は、とても厳しいものだったのです。
事後に私は悟りました。慈悲とは、自分の私心を超越し、清らかで自由な状態であり、大きな視点から見ると、俗世で苦しみながらもがく衆生を目の当たりにし、瞬間的な得失に一喜一憂し、争いの中で業を積んで滅びていく姿を見ると、憐れみの気持ちが生じます。そして、その人の過ちに対して恨みを抱くことはありません。恨みの心とは、結局、世俗的な名誉や利益、情が満たされないことから生じるものなのです。
多くの学習者は、見たところ他人のために行動しているように見え、師父の講法を引用してもっともらしいことを言っていますが、実際には自分自身を守り、名誉や利益が損なわれることを恐れているのです。師父が私たちに修煉するよう要求しているのは『無私無我』(『精進要旨』「佛性に漏れなし」)です。チケットを売る際も同じで、私心を本当に捨ててこそ、善念と慈悲が生まれるのです。
神韻のチケット販売のターゲットは、エリート層です。地元のエリート階級の大部分は初期の西欧からの移民です。文化の側面から分析すると、西洋文化はキリスト教やカトリックから派生しており、中国の儒教・仏教・道教文化と似ています。どちらも神を信じ、神を敬い、返本帰真、また、周囲の人々に善意と慈悲を示し、苦難を受け入れ、それによって罪業を減らすという考えも共通しています。伝統への回帰や道徳の育成、家族の重視などは、中国文化と西洋文化の類似点です。
西ヨーロッパは高山や丘陵により小さな地域に分かれ、海に囲まれています。そのため、公平さ、競争、契約を重んじています。イギリスでは1215年に市民の私有財産を保護する大憲章が誕生しましたが、これは中国の南宋時代にあたります。陸地の資源が乏しいため、冒険を尊び、公平な契約や開拓精神を育んだ海洋文明が生まれました。帆を上げて海に出ると、一旦船が沈められれば、船長も副船長も船員も一緒に海に沈むしかありません。この思考の違いが行動の違いを生み、西洋人は階級秩序がそれほど明確ではなく、自分の意見を積極的に発信することが奨励されます。一方で、中国人は常に権威を待ち、統一された声を求める傾向があります。
中国人の伝統的な考え方では、士農工商(しのうこうしょう)の順序があり、体裁が良くない仕事に就くと、自分が一段低いと感じがちです。そのため、アジア系の人々は学業成績を非常に重視します。一方で、西洋人は体育の育成に重きを置いており、エリート層では特にそうです。若い学生たちはスポーツスターを崇拝し、勉強ばかりしている軟弱な学生を軽視する傾向があります。これに対して、中国人は学業成績を最も重要視し、精神世界の充実を大切にします。たとえ弱い学者であっても、天下を指揮する度量を持っています。
地元の資源が限られているため、神韻公演を開催する際には、地元ではないメディアの同修に頼って地元の政府関係者のインタビューを手伝ってもらっています。また、ガンジンワールドのブースも、地元でない同修が設置を手伝っており、地元ではトレーニングが不足しており、独立性が足りず、手が回らない状況です。これらは急いで解決すべき問題です。個人的には、神韻を開催することは、師父に報告するためでもなく、補導員のために何かをすることでもないと思います。成功しても、すべての功績が補導員に帰するわけではありません。表向きは、神韻の感謝会には、役職に就いている学習者だけが招待されますが、ドアにチラシを掛けたり、警備を担当したりといった雑務を引き受けた学習者も、誰一人として忘れられているわけではありません。すべての救われた衆生は、最終的に学習者が円満に達した後の新しい宇宙に行きますが、その業力は師父が一人で引き受けています。
神韻は人々を救うための偉大なプロジェクトであり、大法弟子が集まり知恵を出し合い、真に自己を捨て去って全力で協力することが必要です。個人的には、真の成熟とは依存しなくなることだと思います。自分自身が静かに物事を調和させ、自分の役割を果たし、怨みや憎しみを持たず、妄念に動じず、その過程で自らの様々な執着を取り除いていくことです。
(完)