フィラデルフィア法会:悲しみを乗り越え、人心から抜け出す
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文/米国フィラデルフィアの大法弟子  

 【明慧日本2024年12月2日】

 尊敬する師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 私はここ数年間の修煉した体験をみなさんに共有したいと思います。

 悲しみを乗り越えて

 私の母は2023年の母の日の数日前に亡くなりました。母は集中治療室(ICU)に5日間入院していました。入院したその日に心臓が停止し、意識を失いました。その後の数日間、私は医者に治療をやめないよう、呼吸器を外さないようにお願いし続けました。しかし、医者は母が既に脳死していると様々な理由を持ち出して説明し、臓器を寄付しない限り呼吸器を使い続けることはできないと言いました。その数日の経験は逃げられない悪夢のようで、長い間、時折私の心に浮かび上がり、消え去ることはありませんでした。

 母が亡くなった後、夫もさまざまな理由で仕事を辞め、景気が悪い市場で何度も壁にぶつかりました。そして、私が職場に戻った初日、私が書いたソースコードを理解していない同僚たちは、プロジェクトがミスった責任を全て私に押し付けました。私は毎日残業して何度も他の人によって修正されたソースコードを直さなければなりませんでした。

 悲しみ、失望、怒り、恨み、そして罪悪感、これらのすべての負の感情と執着が私を襲いました。

 私は母が非常に精進した修煉者であるとずっと思っていたので、こんなことが起こるとは考えてもいませんでした。母が入院している間、私は強がって、目の前のすべてが幻想だと思い込んでいました。母が呼吸器を外され、呼吸を停止した瞬間、私のすべての正念は一瞬で崩れ去り、これまでのすべての執着が無意味であったかのように感じました。今思い返すと、私はずっと安穏とした生活を送り、母への情が非常に強く、仕事における名誉の追求や嫉妬も手放していませんでした。

 母がICUにいるとき、さまざまな管が挿入された彼女の身体を見て、彼女が多くの苦しみを経験していることに心を痛めました。法を学ぶ中で、人間の表面から見ると一見多くの苦しみを経験しているように見えても、実際には多くの業力が消えていくことを理解しました。

 師父は『二〇一六年ニューヨーク法会での説法』の中で、「もし大法弟子が誰も死ななければ、これは奇跡ではありませんか? 大法弟子の誰もが死なないのであれば、これはどういう状態なのか、皆さん考えてみてください。誰もが大法を学びに来て、法輪功を習えば死なないのだとこの迷いは破られてしまいます。これは人類にとってこの上ない庇護(ひご)であり、みんな学びに来るのです。ですから、旧勢力は承知せず、法輪功を習っている人が常人や普通の人と同じ状態にし、老いと病業の現象があるようにしています。」

 また、師父は新経文『険悪を遠ざけよう』の中で、「あなたが生生世世に作った借りの持ち主、場合によって巨大な業と借りの被害者があなたに返済を迫り一歩も譲らないとき、どのように対処するのですか? 宇宙の法理もすべての人を量っているため、修煉のとき魔難に遭い、迫害を受けることがあるのです。」

 法を学ぶことで、修煉者の一生は幸せな生活を追求するためではなく、返本帰真するためであると分かりました。物事の因果関係が見えず、前世に借りがあるのか、旧勢力の干渉なのかはわかりませんが、もし本当に師父と大法を信じているのなら、母がこの人生で大法の修煉の機会を得たことを喜ばしく思い、彼女が今は苦しみがなく、悟りのある状態で、きっと素晴らしい場所で私たちを待っているのだと信じるべきです。

 また、私を本当に苦しめているのは情だということに気づきました。私はもはや情に操られ、旧勢力に妨害されてはいけません。法理を理解した後、久しぶりに気持ちが軽くなり、まるで頭上の暗雲が消え去ったかのようでした。多くのことにも好転の兆しが見えました。夫は新しい仕事を見つけ、私たちは競争が激しい住宅市場で家を購入することができ、新しい家に引っ越しました。

 私は師父の按排と同修たちの助けに感謝しています。特に、母の死後間もない頃、近くの町の市場で真相を伝える活動や、その後の議員との会談は、私に悲しみに浸ってはいけないことを気づかせてくれました。私にはもっと重要なことがあり、自分の使命と責任があるのです。

 嫉妬と恨みを捨てる

 昨年、私は新しいグループに移動になりました。そのグループには非常に強気な同僚がいて、さまざまな規則を設けることを好みます。例えば、彼女はすべての人がトランスジェンダーや同性者のための代名詞を追加することを推奨し、特定の言葉を文書やデータの命名に使用することに反対しました。私はこれらの人種や性別の問題を取り上げるその同僚のやり方に非常に不快感を覚えました。

 さらに不愉快だったのは、彼女が会議で私の書いたソースコードが非常に汚いと言ったことです。彼女は私のソースコードをレビューする際、彼女の指摘通りに修正するように求めましたが、最終的に得られる結果は全く同じでした。また彼女の指摘は定められた基準に基づいたものではなく、必ずしもより良いものであるとは限りません。私が反対意見を述べると、彼女は「私たちはもっと良くする努力をすべきだ」と言い、彼女の提案がより良いことを暗示し、私が修正しなければレビューを通してくれませんでした。

 私たちの上司はプログラミングを理解しておらず、新しいシステムにも精通していなかったため、私がこのグループに来る前は、彼女の意見がすべて採用され、昇進もしていました。何度か彼女とのコミュニケーションで抑圧された後、私の心の中で彼女は母の呼吸器を強制的に外させる医者と同じように、悪魔のように感じました。

 その後、彼女が会議で発言するたびに、私はとても不快に感じました。彼女が出した新しい提案はすべて反対したくなり、その提案が新たな規定になってしまうのではないかと恐れていました。他の同僚との会話でも愚痴を言うようになり、愚痴をこぼした後は、自分が口を修めていないと後悔しましたが、実際の彼女とのやりとりの中ではとても気がかりでした。

 法を学ぶ中で、私は強い嫉妬心と争う心を持っていることに気づきました。彼女の地位に嫉妬し、彼女の働き方を見下し、仕事での名声も手放せず、自分の技術や能力を示そうとしていました。また、党文化の影響もあり、彼女がある面でうまくいっていないと、彼女のすべてを否定したくなり、強い恨みを抱いていました。「真・善・忍」の3つの言葉、どれ一つとして実践できていませんでした。

 私は、師父の要求から遠く離れていることを認識しました。常人と是非を争っていることに気づきました。同僚の強気さや見せつけようとする姿勢も、私自身にもありました。私も強硬な態度で他人の意見を否定したことがありました。同僚の多くの提案には価値があるものもありました。他人が欠点や間違いを指摘してくれたときには、もっと謙虚に受け入れるべきです。私が反対しているのはすべて間違いなのでしょうか?私が主張しているのはすべて正しいのでしょうか?私の反応は、同僚の行動が私の執着心に触れたからではないでしょうか? 彼女は私の意見を褒めたり同意したりすることはなく、反対意見を出し、私のいくつかのやり方を批判しました。同僚の存在は、称賛と崇拝を期待する「偽の私」に挑戦してきたのですが、私は見せつけたい心、争う心、嫉妬心、恨む心を手放せませんでした。

 同僚のいくつかの考えや行動は、よくないところがあるかもしれませんが、彼女の本質は悪くないかも知れません。私はもっと寛容になり、修煉者としての自分を思い出し、より多くの人に真相を伝え、救うことを目的にすべきです。彼女の考え方だけを見て彼女を評価し、自分の正しさを証明しようとすることは、私の執着心の現れです。

 今は、会議の前に執着を手放すことを自分に思い出させています。また、彼女と話をする時は、彼女の良いアイデアを認めるようにしています。この体験談を書くときも、自分が周囲の人々ともっとなかよく接し、口を修め、常に自分が修煉者であることを思い出すようにしています。

 過去の経験を振り返ると、多くの不足があったと感じます。これからは、もっと精進し、怠惰や安逸を求める心をなくして、修煉の機会を大切にし、立派な大法弟子としての役割を果たしたいと思います。

 師父の慈悲なるご済度に感謝いたします!同修たちに感謝いたします!

 (アメリカ・フィラデルフィア法輪大法修煉心得交流会体験発表文)

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/10/31/484464.html
 
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