苦難は人を奮い立たせて向上し安楽は人を堕落させ破滅に導く
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文/米国の大法弟子

 【明慧日本2025年2月12日】師父は2024年6月5日に発表された『法難』という新経文の中で、「中国で1999年に起きた法難は今日まで続き、アメリカや全世界においても終了していません」と明確に説かれています。しかし、多くの修煉者と交流していると、法難という言葉を口癖のように言っているものの、まるで法難が2024年や2025年の今、突然始まったかのように捉えている人がいることに気づきます。まるで、今になって社会状況が変わったから、自分たちが何か行動を起こさなければならないと思っているかのようです。

 このような現象は、一部の修煉者が修煉において遅れをとっていること、法を師としていないことを反映しています。法にはすべてが明記されています。あとは私たちが実践するだけであるのに、師父が改めて教えてくださるのをまだ待っているのでしょうか。これは愚かなことではないでしょうか?

 法に則って法を深く理解し(訳注:法を自分自身の行動の指針とし、常に法に照らし合わせて内に向けて探し、自己の向上を目指す)、困難な状況に直面した時に自分の心性を高めることは、真の修煉者なら誰でも身につけるべき能力です。『苦難は人を奮い立たせて向上させ、安楽は人を堕落させ破滅に導く』という言葉があるように、26年間という長い修煉期間の中で、もしあなたが怠けていたり、修煉や人を救うことを二の次にしていたり、常に常人の考え方に囚われていたとしたら、今、海外で法難がより顕著になっているこの状況は、あなたにとって最後のチャンスなのかもしれません。

  今こそ目を覚まし、心性を修め、法を師として、法に則って法を深く理解すべきではないでしょうか。

 ある人は、旧勢力を否定することで自分の過ちを認めず正当化し、修煉の本質を誤解し世俗的な政治活動や革命と混同しています。しかし、考えてみてほしいのです。旧勢力が妨害するのはどこが悪いのでしょうか? それは法を正すことを利用し、妨害し、抵抗しているからです。しかし、旧勢力に付け込まれて妨害されるような修煉者は、長年改めなかった執着を持っているはずです。どんなに小さな執着であっても、それは明らかで、周囲の人も気づいています。旧勢力が見過ごすはずがありません。旧勢力が妨害しているのは事実ですが、だからといって、自分の修煉における過ちを旧勢力のせいにできるということにはなりません。

 修煉者が自分の過ちを認めようとせず、それを修煉と称しているのは、真の修煉とは言えません。それは、法を師として自己を正すこととは程遠い状態です。それこそが、旧勢力の妨害を打ち破るのではなく、むしろ旧勢力につけ込む隙を与えているようなものです。旧勢力に対する否定と、自身の修煉における過ちの否定を、混同すべきではありません。

 25年前、法難が始まりましたが、師父が慈悲深かったからこそ、全世界で同時に迫害が起こらなかったのです。現在、邪悪なものはほとんど消滅し、わずかな残党(低級な邪霊)しか残っていません。たとえ海外で公然と迫害が行われても、大きな影響力を持つことはできません。しかし、私たち大法弟子は他人につけこまれるようなことをしてはいけません。自分の執着にしがみつき、どんな小さなトラブルも自己を正当化する機会だと捉えるようなことは、旧勢力につけ込む隙を与えるようなものです。中国の政治や常人社会で身についた自己を正当化する習慣は、修煉とは程遠く、旧勢力や迫害を否定するという私たちの立場と矛盾します。

 海外で常人の生活を第一にしている修煉者は、中国での圧力から逃れるために海外に渡り、個人的な生活を優先しています。もし、今、海外での法難の波に巻き込まれて苦しんでいるのなら、よく考えてほしいのです。なぜ苦しいのでしょうか? それは、恐れる心があるからです。何を恐れているのでしょうか? 常人としての地位や生活を失うことを恐れているのではありませんか? もし、道に迷ってしまったと感じているのなら、法に照らし合わせ、自分の迷いの原因を探してみてください。自分の出発点と目的は、自分自身のためなのか、それとも人々のためなのでしょうか?

 三つのことを行って精進しているつもりでも、法を学んだり内に向けて探すことを形式的なものにしている修煉者がいます。そのため、内に向けて探す必要があることはわかっているものの、いつも表面的な部分しか探せず、結局何も見つけられずに終わってしまいます。日常生活での例え話をしてみます。交差点を渡る時には信号を見て、左右に歩行者や車がいないか確認しなければなりません。これは交通ルールであり、交通安全のために定められたものです。もし、単に「見た」という行為だけをして、実際には周囲の状況をしっかりと確認していなかったために、赤信号で渡ったり、他の車や人とぶつかってしまったら「私は交通ルールを守りました。見たけれど、何も見えなかったのです」と警察に言えるでしょうか? このようなことは、決して許されるものではありません。内に向けて探すことができない、いつも何も見つけられない、ということは自分自身で自分の足を引っ張っており、貴重な修煉の機会を何度も無駄にしているということです。

 解決方法は師父が何度も説かれています。それを理解できず、実践できていないのは、自分自身の問題であり、向上すべき点です。どのように向上すればいいのか、その答えはすべて法の中で説かれています。師父は「法を師とするように」と何度も教えてくださいました。にもかかわらず、10年、20年、30年と修煉を続けても、まだ法を師とすることを学べず、何かを聞けばすぐに心が揺さぶられ、他人に影響され、流行や刺激を求めていないとつまらないと感じてしまうのであれば、一体なぜ修煉を始めたのでしょうか。

 ほんの少しの向上でも大切であり、修煉の道はこうした小さな積み重ねによって、気づかないうちに悟りへと導かれます。

 修煉者同士の理性的な交流は、一般的にその人が修煉しているその時点での悟りや理解に基づいたものであり、善意を持って交流し、互いに向上することを目指しています。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/1/27/489288.html
 
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