私は善良であり続けたい
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2025年3月27日】師父は説法の中で何度も「善良」について語られています。法を正す時期の修煉の過程で、私たちは個人の修煉から「師に手伝い、衆生を救い、大法を実証し、誓約を果たす」段階へと進みました。私たちは毎日、家庭・仕事・社会・プロジェクトなどで忙しくさまざまな役割を果たしていますが、なぜ私は常に「善良」であり続けることができないのでしょうか?

 私は「善良であり続ける」ことを大切にしているつもりですが、気づけばそれを忘れてしまい、善良とは正反対の態度をとってしまうことがあります。特に、心に触れるような出来事があると、拒絶したり、不快に感じたり、傲慢になったり、不公平に思ったり、不満を抱いたり、自我を実証しようとしたり、言い争ったり、外に向かって責めたりしてしまいます。なぜこうなってしまうのでしょうか? なぜ私は「善良であり続ける」ことができないのでしょうか?

 改めて自分を見つめ直してみると、この問題は修煉の原点に遡り、「なぜ修煉するのか?」「修煉の目的とは?」「修煉者とは何か?」と考えなければなりません。最近の学法の中で、師父が私に示してくださった法理は、まるで棒喝を受けたようで、その瞬間、私は目が覚めたのです。

 法の中で私は気づきました。私が「善良であり続けることができない」のは、自分が執着があるからです。私はさまざまな執着に縛り付けられ、それを守ろうとして、あらゆる理由や外的要因を探しながら執着を守っていました。そして、思想の中には明確な認識がなく、自ら進んでこれらの執着を取り除こうとしていなかったのです。

 私が「善良であり続けることができない」のは、「恐れ」が原因だったと気づきました。私は苦を嘗めるのを恐れ、苦しむのを恐れ、人に指摘されるのを恐れ、傷つくのを恐れていました。私は心の苦しみも、身体の苦しみも、どちらも恐れていました。この「恐れ」を私は無意識のうちに成長させ、大きくしてしまいました。そして、その恐れが私の先天的な本性を覆い隠し、心性を摩擦の中で苦を嘗め、業力を消すことを妨害しています。しかし、修煉とは執着を取り除き、師父がすでに大部分を消去してくださった業力のうち、自分自身で背負い、償うべきほんのわずかな業力を消すことによって向上することなのです。

 私が「善良であり続けることができない」のは、まだ多くの良くない観念に気づいていないからだと分かりました。

 これらの観念は、常人社会の流れに染まった結果であり、自分自身ではその影響を受けていることにすら気づいていませんでした。例えば、最大の利益を追求すること、効率を追求すること、物事を行うとき近道を探しています。一旦これらの観念に触れると、自分の意にそぐわない時、他人がなんと愚かだろうと感じてしまいます。トラブルが激化すると、相手が理屈で納得させることができないと思ってしまいます。実は相手が愚かだからではなく、自分が愚かであり、牛の角に潜り込んで抜け出せず、修煉の要素をすべて放棄しているからです。修煉者が正念を重んじ、人間の能力ではないのです。

 例えば、以前の私はよく周りの人や物を自分の附属品のように考えていました。まるで小間使いや力を貸してくれる人、杖のように、問題を解決してくれることを期待していたのです。そして、それは当たり前のことだと思っており、もし手を貸してくれなかったり、助けがなかったりすると、腹を立てたりしていました。

 同修の間でもこのような問題があります。協力が自分の思い通りにならないと、嫌がることがあります。しかし、法理をよく考えてみると、師父の法身は私たちの周りの人や事物を通じて、私たちの修煉や向上のために関を設けておられるのです。私たちは正法の理と逆になっている理の中で修煉しています。もし本当に全てが自分の思い通りに進むのであれば、それは間違いなく魔が提供した(私たちを陥れる)ぬるま湯であり、泥沼であり、蜜を塗った毒薬の罠なのです。

 これらを認識した上で、私は今後の修煉の中で、さらに修煉者としての状態を保つことに注力したいと思います。常に自分に警鐘を鳴らし、私は修煉している、これは機会であり、私の何らかの執着を取り除くためです。苦を嘗めるのを恐れているのは自分ではなく、私の真の自我は苦しみを恐れません。私は苦を嘗めるために来ており、自分の執着を取り除くために来たのです。多くの意見を聞き入れ、批評を受け入れ、忍耐をし、代償を払い、責任を他人に転嫁することはしません。

 私の本性は善良であり、その善良な本性に立ち返りたいと思います。そして、本質から自分を変え、その出発点は、他の人のために良いことをすることです。これは決して表面的なことではなく、本質からの変化です。もちろん、その過程は簡単ではないかもしれません。自分にはまだ多くの欠点や不足があることを知っていますが、それでも私はその願望を持っています。心を固くにして、必ずや成し遂げます。

 思想が向上するにつれて、師父が法の中でさらなる深い内涵を啓示してくださったことを感じます。私は、法難が目の前にある今、三つのことを決しておろそかにしてはいけないと認識しています。個人の修煉においても、さらに努力を重ねなければならないと思います。私たちが善良を保つことができるのは、法を円容することに繋がり、また、行うことが良くできる、できたということは、法を護持することに他なりません。

 以上は現段階での個人の認識であり、不足している点があれば、同修の皆さんに慈悲をもってご指摘をお願いします。

 (文章編集:文謙)

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/3/7/490751.html
 
関連文章