文/中国の青年大法弟子
【明慧日本2012年3月7日】私はずっと、自分の感想を書いて同世代の青少年の同修と交流したいと思っていましたが、怠ける心や恐れる心などの人心に阻まれて、同修に対する責任感も強くなかったので、なかなか書きだせずにいました。今日勇気を出して、個人修煉の中での経験、教訓、心得などをもって、自分と同じ状況にある青年と少年の同修たちと交流し、少しでも助けになれたらと思っています。
私は98年に法を得ました。当時9歳でした。今日まで歩んで来た一人の古い修煉者でもありますが、しかし、自分が精進していないことは自分でも分かっています。法を得た最初の数年間は、幼かったため何が修煉なのか、どうやって修めるのかの概念もなく、ただ母が修煉してから体が健康になったのを見て、ああ、この功はいいのだと単純に思い、そのため母の導きで一緒にやっていました。それから成長するに伴い、特に邪党による迫害が始まってから、だんだん自分が修煉していると認識して、いかに修煉するかも分かってきて、大法弟子として、複雑な世間でどうするべきかを学んでいきました。ですから小学校から大学院まで、師父の慈悲なる保護の下で、大法はずっと私に伴い、私は勉強と生活の各段階を歩んできました。
この十数年の中で、個人の悟性と心性上の不足により、また勉強や試験が忙しかったことなども加え、修煉はあまりできておらず、精進するときは少なく、大いに緩んでいて、転んでしまうときもありました。しかし、師父はずっとこの意気地のない私を放棄されませんでした。自分も修煉の中で、異なる年齢層の同修は異なる修煉環境と修煉状態があり、各年齢層で直面する問題と障害があるのが見えました。青少年の同修は、複雑の社会に身を置かれ、いかに複雑な誘惑に満ちた世間に迷わず、常に大法で心を充実させ、大法への固い信念を持ち、法を正す時期の大法弟子であることを堅持し続けるかの問題があります。私が知っている限り、現在中国大陸では、当初親たちと一緒に大法に入ってきた縁の深い少弟子たちは成長に伴い、特に邪党の迫害による邪悪な形勢の下で、だんだんと大法修煉を放棄した人が結構います。主な原因は法の勉強が足りず、年齢も小さいので、色々な影響や妨害と侵害を受けやすく、常人の流れに流され、最後に常人まで落ちました。中、老年の同修は、普遍的に肉親への情が存在し、特に自分の子供への執着と病業の関の問題があります。
私は青少年の同修として、修煉の道を振り返る中で、青少年の同修に見られる、いくつかの大きな執着と障害が見えました。自分の感想と合わせて書き出して、同修と交流したいと思います。
(一)安逸心、遊びたい心
常人の言葉で、遊ぶのは子供の天性だと言います。確かに幼い小弟子として、童心が残っているので、遊びたいとか、わいわいしたい気持ちは別に悪いとは言えません。しかし、成年に近づいている同修と、成年になった同修たちにとって、遊びたい心は精進を阻害する一つの大きな要因になっています。私の周りでも、男性の青年同修はゲームに没頭して、修煉したりしなかったりする人がいて、同修である家族から何を言われても聞き入れないという状態です。これはやはり法の勉強が少ないからで、このままで続くとどうなるのかと心配されています。
私自身も遊び心のせいで、何回も修煉の道で転んだことがあります。2005年、大学に受かって、緊張していた高校生活から脱出して、一気に大学のゆったりとした環境に入って、家族からの制限もないため、自由になったようで、修煉が緩んでしまって、長い間常人に混じり込んで、同級生と遊んでばかりで、『転法輪』は一週間に一講も読めませんでした。母が電話で精進を促してきた時には、ちゃんとしていると嘘をついてしまいました。ある日突然、私は常人の痔の病業が現れ、1カ月近く経っても座っていられないくらい辛くて、重い時は寝れない状態でした。師父のお告げと母の助けの下で、やっと自分が怠けて精進しなかったことで邪悪に隙を乗じられたことを認識できて、それから大量に法を勉強して、煉功を増やして、同時に自分の不足と執着を探り、最終的にこの関を乗り越えました。
(二)インターネットに熱中して、ひどい妨害を招いた
今の社会で、人はパソコンなどの電子製品への依存がますます酷くなっています。特に若い人ですが、インターネットに夢中で一日も離れないのです。一部の青少年の同修も同じです。私は数日前、生死の関を経験したばかりです。その主な原因はインターネットへの執着でした。大学院に入ってから、私も多くの常人の同級生と同様に、毎日の生活はほぼ寮でパソコンを使い、インターネットで遊んで過ごしているのです。毎日一定の量の学法を維持するようにしているのですが、一方、ネットで買い物したり、映画を見たり、ゲームをしたり、会話をしたりするなど、たくさんの時間を潰しました。最も良くないことは、ネットにはたくさんのでたらめな情報や映像が溢れているので、長期的に見ていると、人の精神、思想、体にも極めて悪い影響や妨害を受けます。自分にはよく分かっているのですが、でもやはり意志が弱いため、また誘惑が絶えないので、同じ部屋の同級生たちがわくわく遊んでいる様子を見ると、自分も思わず従ってしまい、できるだけより“正しい”映画を選んで見ようとしましたが、時には悪い映画も見てしまい、流行っているゲームで遊び、一日一日を潰しました。冬休み、母(同修)からこの問題を指摘されましたが、その時は「みんながやっているから、これも常人状態に符合している」と弁解して、自分の執着がかなり酷いと分かっていながら、言い訳してまだ放棄したくなかったのです。
数日前の夜、母と一緒に煉功していて、私はベッドに立って第二式の「両側抱輪」を行なっている時、突然一つ怖い力が私に向かって来たのを感じました。その一瞬で心臓が速く動き始め、息も苦しく、頭の中で大きな音をした後、何も聞こえなくなって、全身に経験したこともない苦しさを感じました。私はすぐに、これは命を取りに来たのだと意識して、何かを考える間もなく、「師父」と呼んだ途端に、立っていられずにベッドに倒れました。暫く巨大な機械のうなりのような音以外、何も聞こえなくなりました。この時、意識がだんだん回復して、無理をすれば座れるようになって、私は正念を発しました。「私は李洪志師父の弟子であり、すべてを師父の按配に従い、他の誰かの按配も受け入れない、旧勢力が私を迫害するすべてを徹底的に否定します」という言葉がずっと頭の中で響きました。
自分のすべてを徹底的に師父に預け、すべてを師父の按配に従うという一念を固く守って、20分後、すべてが正常に戻りました。それから母との交流の中で、ネットへの執着を見つけました。これは私が邪悪に隙を乗じられた最も大きな漏れです。他には師父がおっしゃったように、「一部の修煉者には、もう一つの誤った認識がありますが、つまり法輪大法を修煉すると、保険をかけているかのように肉身が死ぬことはなくなると思っています。」(『精進要旨』「明示:)という心もありました。『明慧週刊』の多くの交流文に、お年寄りの同修がよく病業の関、生死の関を直面するのを見ると、「お年寄りの同修は年をとっているから、生死の関を乗り越えなければならないが、私はまた若いから大丈夫」という一念が生じて、この正しくない一念はこの難を招きました。
修煉は本当に何よりも厳粛です。若い同修たち、本当にインターネットに夢中にならないようにしてください。この執着があったら早く放下してください。でないと本当に危ないです。
(三)面子を重んじる心と恐れる心が衆生を救い済度することを阻む
私にとって「三つの事」の中で、真相を伝えるのが一番弱いです。家では私と母が修煉者で、父は常人です。邪党が大法を迫害してから、家族は大きな魔難を受けてきて、母は二回不法に拘禁されたことがあって、経済的にもある程度の損失がもたらされました。父は最初、大法を支持していましたが、この事で私たちの修煉に反対するようになって、甚だしきに至っては、数年来よく殴るようになり、今でも大法について語ることを許しません。言ったらすぐに大法を罵ります。家族に真相を伝えるのが足りないとよく分かっており、努力もしてきました。母自身の正しく行いを通じて、修煉環境をよく改善できて、今、家の中で公に煉功をしています。しかし、私はずっとどっちつかずの状態で、父は私が煉功しているのを知っていますが、私自身はずっと恐れる心を突破できず、大法弟子として父に真相を伝えたことはありません。今はもう時期だと思って、早く恐れる心を突破して、正々堂々と修め、必ず家の環境を正したいと思います。
「三退」が始まったとき、私は高校生でした。それからもずっと学校を離れたことはなく、真相を伝えるのも周りの仲の良い同級生に限っています。この数年、真相を伝える範囲を拡大しようと考えたのですが、しかし自分の身分を同級生に知られることに恐れ、第三者の立場から伝えるしかできませんでした。
恐らく、多くの青少年の同修も私と同じ問題を抱えていると思います。恐れる心を突破すると同時に、例えばメールを使って真相を伝え、電話番号を収集することもできると思います。特に若い同修は学ぶのが速いので、何をやるにしてもスムーズにいけると思います。お年寄りの同修たちもできますから、私たちはなお更、試してみませんか?
(四)男女の情を淡泊にするべき、放下に至るまで
今日の複雑な社会形式に置かれ、青少年の同修に注意しなければいけないことがあります。つまり男女の情、及び結婚などの問題に対して、いかによりよく対処するかのことです。これは、この世代に必ず出てくる問題でもあります。私もこの問題において少し遠回りをしました。高校の時の一人の同級生がこの数年、ずっと優しくしてくれて、自分はこのような経験をしたことがなかったので、一時は男女の心が動じてしまって、彼と親しくなって、いわゆる恋愛に近い状態になっていました。ちょうどその間母は外地にいて、師父のお告げによって、私は海で溺れた夢を見ました。母は私に問題が発生したと意識し、すぐに家に帰ってきました。交流を通して、情が動じて執着になったことを認識させてくれました。苦しみの中で心を修め、だんだん男女の心がなくなり、修煉の方向を正しました。
しかし、一部の同修は「若者たちはこれからやはり所帯を持たなければなりません」(『転法輪』)と、師父が説かれ、常人社会に身を置く修煉形式なので、誰も結婚しなくなったらいけないでしょう? 後代の人にお手本を残さなければ、と思っています。私の認識では、法を正す角度から言うと、私たちは法を正す時期の大法弟子であり、今、法を正す最後の最後に至ってきました。迫害の厳しい形式による複雑な環境の中で、師父の保護の下で今日まで歩んできて、容易なことではありません。各方面で巨大な代価を払いました。今、私たちにとって、もっとも肝心なことは法を実証し、衆生を救い済度することです。個人修煉において、世間の中で修煉している人にとって、情は必ず放下しなければならない一つの大きな執着であり、男女の情を取り除くのも一番厳しい試練の一つだと思います。このような状況で、私たちはなぜ、色々な執着が湧いてくる危険性を冒して、甚だしきに至っては旧勢力に隙を乗じられ迫害を受ける恐れをも犯して、自ら情を招くのでしょうか? 常人と、あるいは同修と恋愛しても得ることより失う方が多いのです。結婚相手が常人の場合、その人が大法に賛成していても、もし情から色々な執着が生じて旧勢力が隙に乗じてしまえば、旧勢力は常人を利用して妨害を働く可能性もあるので、それなら法を実証することにも影響を与えてしまい、かえって衆生を地獄へ押して出してしまうのではないでしょうか? それでは同修との結婚はどうでしょうか? 二人とも大法弟子ですので、各自の心性をうまく把握できれば、互いに促進し、共に精進し、高め、当然最高なことですが、もしこうでなければ、結婚によって生じた色々な執着は、各自の修煉を阻み、法を実証し衆生を救い済度することに影響を与える可能性もあり、やはり得る事より失うほうが多いのです。それはしてはいけません。
師父は私たちに強制して何かをしようということは一切なく、ただ私たち自身がどう悟るかによって行なっています。個人の考えでは、青年の同修は結婚の問題に触れないほうがいいと思います。しかも、この複雑の環境の中で自分をよく把握して、この面の問題について厳粛に対応したほうがいいと思います。すでに結婚を意識する年齢になった同修にしても、できるだけ常人との結婚を避けて、本当に自分と合う同修が見つかったら、師父の按配に従って、縁があれば自然に夫婦になります。執着しないよう、いかなる執着であっても虎視眈々としている旧勢力に妨害と迫害される可能性があります。
以上は個人修煉の中での、少しの心得と認識です。青少年の同修たち、私たちは幼い頃から師父と共にこの世で法を正すことができ、どれだけの縁があるでしょう。もし良く行なえなければ、世に迷い、自分にも衆生にも、更に師父にも申し訳ないことです。皆さん必ず師父が法を正す進展を追いつき、一緒に家へ帰りましょう!
次元の限りがありますので、不適当なところや不足なところをご指摘願います。合掌!
(English: http://www.clearwisdom.net/html/articles/2012/3/3/131877.html) 更新日:2012年3月8日