文/中国の大法弟子
【明慧日本2014年3月21日】最近、私は『轉法輪法解』「済南での講法の質疑応答」を学びました。そのなかで、煉功について、師父は次のように説かれました。「結印しなければ駄目です。やるべきことはしっかりやってください。結印しなければ、このようなエネルギー流が発生しません。エネルギー流が通らないなら、どうやってあなたとあなたの功を演化させるのですか?」この部分を読んで、なるほど、結印にはこれほど深い意味があったのかと私は驚きました。簡単そうにみえる一つの動作ですが、エネルギー流を伝送する役割を果たし、修煉者の本体を変える重要な作用があったのです。
共産党が法輪功への迫害を始めてから15年経ちました。この十数年という長い間、中国の法輪功修煉者は各自が自宅で煉功して、集団で修煉する環境を失い、互いに間違った動作を指摘しあう機会をなくしました。また、煉功の内包をだんだん忘れ、煉功の動作も正しくなくなりました。神聖な煉功動作を一般の体育の鍛練のようにやっていました。例えば、結印の動作ですが、私は両手の親指を合わせたところで、ほかの4本の指はまだ合わさってないのに、結印を解きました。結印の音楽はまだ流れていたのに、私は家事をしに行きました。
驚きのあまり、私は師父の煉功を教える写真を取り出し、何回も細かく見ました。細かくみて大変驚きました。結印だけでなく、多くの動作がずれていました。煉功の間はずっと両脚を少し曲げ、膝と股の二カ所は滑らかな状態にすべきでしたが、私の脚はまっすぐに立っていました。功は緩、慢、円にするように要求していますが、私は師父の号令がまだ終わっていないのに、すでに畳扣小腹をしていました。法輪椿法をする時、脚が疲れたら、落ち着かず、動き回りました。静功の時、加持柱状神通(片手をあごの下に、もう片手を下腹部に置く動作)をする時、前腕は下あごのところで水平を保つべきなのに、私の前腕は胸の前まで下がっていて、ぼんやりしているときは前腕が腹部の前まで垂れていました。
ここまで書いて、私は心が非常に苦しくなりました。功は法の一部であり、煉功を怠ってはいけません。実際、師父を尊敬せず、法を尊敬していないことになります。師父は私たちを高い次元に導くために、完璧な性命双修の功法を教えてくださいました。煉功を重視しなければ、どうやって体を変えることができますか? どうやって高い次元へ修煉できますか? 煉功を緩めることは、はっきりいうと、自分の修煉に対して、責任を取らないことであり、自分に対する基準を下げることになります。十数年間の自分の修煉過程を振り返ってみても、体の表面はあまり変わらず、顔には黒いしみがいくつか増えました。足の皮膚は乾燥して、冬になると、かかとが裂けて、血の傷口ができ、すねは常にけいれんしていました。正念で否定しても好転しませんでした。心性上の問題以外に、私の煉功動作が正しくないことに関連しているのだと思います。
同時に、これは私ひとりだけの問題ではなく、同修と交流すべきだと思いました。これは同修に対して責任を取ることでもあります。私は数人の同修の自宅を訪れ、彼女たちの煉功動作を見たところ、みな動作が正しくなかったのです。そのことに皆もとても驚きました。ある同修は、「私は朝煉功するとき、眠くなると歩きながらやっています。なぜなら、立っていると寝てしまうからです」と言いました。静功の加持柱状神通をする時、3人の同修の動作は私と同じように、前腕が胸の前にありました。私がその同修の動作を正しながら、「前腕は下あごのところで水平にさせるべきです」と伝えると、ある同修は私に、「どうして動作が変わったの?」と聞きました。なぜなら、私たちは集団で煉功する環境をなくしてから、長い時間が経ち、煉功をおろそかにしたため、正しい動作をはっきり覚えておらず、正しくない動作に慣れてしまっていからでした。
このような状態は中国本土ではとても普遍的にみられます。数人の同修と私は共通の願いを立てました。同修が私を戒めとして、常に師父の煉功を教えるビデオをみるか、あるいは数人の同修が一緒に煉功し、煉功する前、あるいは煉功後、互いに動作を正し合い、煉功を厳粛なこととして扱い、師父の煉功を教えるビデオ、大円満法、動作を教える写真と同じ要領に保つことを希望します。