「歓喜」と「顕示」の背後には?
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年4月15日】「修は己にありて、功は師であり」[1]、これは私達が弟子として皆分かっていることです。しかし、修煉している中で、知らないうちに、私達はこの法を忘れるときがあります。明慧ネットで、『顕示心を取り除かなければ危険が深い ◎師父評注文章』を読み、私は「師父はどうしてこの法について、また説いて下さったのでしょうか? すでに『轉法輪』に書かれていますが、きっと弟子達はこのような漏れがあったので、自分自身はまだ気づいていないのでしょう」と思いました。

 そう考えて、直ちに、内に向かって探し始めました。例えば、自分はどうして「歓喜心」あるのか? どうして自分はいつもなんとなく自慢して見せびらかしたいのか? この「歓喜心」と「顕示心」の裏には何があるのか? 探しているうちに、やっと答えが見つかりました。実は恐ろしいほどの「手柄を横取りする心」があったのです。師父はすべてを成し遂げておられ、私はただこのような願いがあって、そして実行するだけでいいのです。法に符合しているので、師父はすべてしてくださったのです。私は少しの成果で、すぐ有頂天になっていました。自分が大法のことをたくさん行ったり、同修を助けてあげたり、同修の向上は自分の努力した結果だと思い込んだりしました。同修が師父の按排に従って、彼自身が修めてできたことだと忘れてしまいました。

 私はいろいろ考えてみると、とても恥ずかしく思いました。自分はずっと「法を正す師に手伝う」と思い込み、同修達が全体を形成させるために努力し続けていますが、実際のところは、手柄を横取りしたいに過ぎませんでした。師父は弟子達を支えて来られました。私達が行ったことは、実はすべて師父がしてくださったのです。それでも、師父は弟子達に威徳を与えてくださいました。

 時に、自分はどうして、偉そうに人と話をするのか? どうも、自分はほかの人より優れていると思い込んでいました。いつも、この同修はこのような執着心がある、あの同修はあのような問題があるとよく考えていました。同修の執着心に執着している自体が、同修を変えようと思い、さらに「自分が正しいと思う」ことに執着しています。実は、同修が修めているかどうか、それは個人的な問題です。どの次元に達しているか、それも同修の努力した結果です。強制的に修煉することはできません。大法は何でもできます。同修達は真面目に学法をすれば、法は一切を変えることができます。しかし、私自身は学法を怠けていい加減にし、熱心にいろいろなことをやっていますが、結局、同修に「あなたはあちこち動き回っているので、きっと心の優しい人だと思いますが、ただ行っていることが法に従っていないのです」と言われました。

 なるほど、私が行っていることは法に従っていないので、もちろん、法の力があるわけがありません。どうすれば、旧勢力の按排を排除することができるのか? 私は学法も煉功発正念のときも、静めることができませんでした。私は「自分のどこに問題があるの? どうすればいいの?」と悩みました。

 先日、地元の3人の高齢な大法弟子が、邪悪の妨害による病気の症状によって家族の人に病院まで送られました。一人は開頭術をしました(今は無事に帰宅し、良くなりました)。私は忙しくて手が回らなかったのですが、どの同修からも私に見舞いに行ってほしいと頼まれました。しかし、私は分身術を持っていません。当然、同修達はさまざまな執着心があるので、旧勢力は隙間を探すことができました。しかし、私の身の回りにあったことなので、私にも必ず問題があると思いました。この文章を書くことを通して、私は「自分を実証する心」「手柄を横取りする心」「多くのことを行ったと思い込む心」と、さらにいろいろな執着心が見つかりました。このような心が大きくなると、旧勢力はきっと喜ぶでしょう。慈悲なる師父は、私自身が問題に気づくようにしてくださり、言うまでもなく、私は直ちに直りました。師父の洪大な佛恩に感謝致します。

 最後に、私と同じような問題がある同修に呼びかけます。師父は「修煉者にとって内に向けて探すことは最も有効な方法です」と説かれました。私達は執着心を捨て、純粋な気持ちで法を実証しましょう。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/5/8/273125.html)
 
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