文/黒竜江省の大法弟子 馬忠波
【明慧日本2015年2月25日】(前の文へ)
五、迫害に遭い万死を冒す
2000年6月5日、初めて北京へ陳情に行った時、阿什河交番に連行され、阿城市第2留置場に拘禁されました。拘束されていた期間、私は断食をして解放を要求しましたが、警官は阿城市病院の医師を探してきて私に強制的に灌食させました。パイプを鼻から差し込まれましたが、何回やっても口から出て来てしまいました。ある時は、管をなんと7回も差し込まれました。毎回管を差し込まれる時に鼻水と涙が流れて、非常に苦しかったのです。警官たちは灌食の際、塩と酒を故意に加えました。塩を加えた目的は私の喉を乾かせるためで、酒を加えるのは、功を演化させないためでした。私は監禁されて2カ月と2日でやっと解放されたのですが、警官はこの機会に乗じて私の家族から500元を巻き上げました。
2000年10月、私は北京へ2回目の陳情に行きましたが、中南海警備署で、警官はスタンガンで私をビンタし、阿什河交番の警官がまた私を迎えに来て、阿城第1留置場に拘禁しました。私は不当に労働教養処分を1年受けた後、ハルピン万家労働教養所に移送され、二度目の強制的な転向を強いられました。警官は転向しない女性の同修をみな、男子隊に行かせて辱めを受けさせました。一回目は同修に経文を渡したという理由で、男子隊の第三隊に行かされました。私は「行きません」と言うと、警官らは普通教育で使う4つのパイプ椅子で1階から3階まで私を運びました。「後日、帰ってから家族に、『万家ではかごにも乗った』と自慢すればいい」と、男性の警官が言いました。私たちが寝ないように、警官たちは交代で私たちを見張っていました。私は当時、第12隊で迫害されていました。張波という隊長は男子隊まできて私を罵りました。「私が修煉してるのは『真・善・忍』ですが、修煉していないあなたは隊長としての規律がすべてでしょう。あなたは忙しいですか?」と質問すると、「とても忙しい」と、張波は言いました。「それなら自分の事をやりに行ってください」と私は言いました。男子隊の警官は誰も私を連れて行かず、女子隊に電話をかけて言い争いを始めたのですが、本当は私を迎えに来なければならなかったのです。3日後、私は経文を持って女子隊に帰りました。
2001年6月21日、世界をあっと言わせた、3人が死亡した万家労働強要所の大惨事についてですが、その日、私たちは練兵場に集められ、はっきりとした大法弟子がどれくらいいるのか警官たちは計算しており、副所長の史英白は自分の鼻を指さして、「誰が法か? 労働教養所のドアが閉まっている限り、私が法だ」と言いました。最後に警官らは5人の警官が大法弟子を殴る事を決め、男子隊に行かない人を殴りました。その時私は逆らったので、警官らは引っ張りましたが、5人の警官の中の1人は女性で、引きずって行けなかったので殴ったり蹴ったりして、「おまえはどうして行かないんだ?」と殴りながら聞きました。「まだ私に尋ねるのですか? 私が男か女かあなたは区別がつかないのですか? あなたはどこで私をひどい目に合わせようとするの?」と、私は警官を見ながら言いました。女性の警官は「男子隊よ」と言うので、私はこう言いました。「あなたは法に触れています。『今、女子隊に帰る』とあなたが言うなら、私は立ち上がって行きます。あなたたちが私を男子隊に行かせようとしても、私はあの場所に行ったことがあるので、あなたたちが何をしたいのかわかります。私は行く必要はありません』と言いました。(ある同修は男子隊で暴行され気が狂ってしまいました)
ある警官は私を拷問したことがあるので、私を知っており、「お前はわかっているのか?」と言いました。私が行かなければ警官らは殴ると言ったので、「撃ち殺されても行きません」と私は言いました。その女性の警官は悪辣に私の髪の毛を掴んで私の腕を引っ張り、硬い砂地を引きずったので、私の背中と両側のかかとは出血が止まらず、靴も脱げてしまいました。その女性警官は引きずって行くことに疲れたので、止まって私に自分で行かせようとしましたが、私は行きませんでした。「あなたはこれほど悪どいです。ほら、あなたのどこが女性なのですか? あなたは罰が当たる事を覚えておくべきだけど、あなたの家に娘はいないのですか?」と、男性警官たちの前で私はその女性警官に質問しました。「私に娘はいない、私に跡取りはいない!」と、その女性警官は大声で言いました。警官が私にビンタをし、私を罵り続けても、やはり私は行きませんでした。その後、「殴るな、彼女は殴り殺されても行かないだろうから、彼女を担いで行こう」と、ある警官が話しました。
私たちを男子隊に放り込んだ後は拷問で迫害され、しゃがまされたまま二晩と一昼夜過ごしました。私の右足は化膿し始め、足は靴よりも大きく腫れ上がりました。私はじっとしゃがんでいられなかったので、両腕をくくられて警官たちによって吊るされました。痛くて気を失うとやっと下ろされ、正気に戻るとまたぶっ通しでしゃがまされました。さらに硬い腰掛に座るよう無理強いされ、座ったら連日連夜その状態だったので、臀部がぼろぼろになり、血膿とズボンが完全にくっついてしまっても、洗い落とさせず、寝かせてもくれませんでした。残虐な刑で苦しめられ続けて9日後、私は女子隊に帰りましたが、足がひどく痛んで歩くことができなかったので、他の人が私に代わって弁当を持ってきてくれました。しかし私は全身が風邪を引いたような状態で熱があり、その後数日間、意識不明の状態が続きました。それから乳房が特にうずいている事に気づいたのですが、中にできものができていて、全身がわなわなと震えました。ご飯も食べられず、20日間ずっとこの状態でした。
その日の夜、私はずっと腫れていた右側の乳房が破裂したようになり、看病していた同修が見た後、トイレットペーパーを手にして乳房を塞ごうとしましたが塞ぐことはできませんでした。黒紫色の血と化膿したものが一緒に勢いよく湧き出てきました。同修はベッドの下から洗面器を引っ張り出して引き寄せると、それを女性警官がドアの隙間から見ていて、「他の人はみな寝たが、お前たちは何をしているのか?」と尋ねました。私の乳房が酷い状態になっているのを見ると、恐ろしさに驚いて声を上げながら走って行きました。やっと何人もの警官が来て話していた時に手で触ったら、ガボガボとまた血膿の汚物が出て来て、片方の乳房は完全に1枚の皮が残っているだけになりました。その日の夜に私は病院まで送られ、医師がピンセットで中をほじくると、「手術をするまでもない、中は何もない」と言いました。後になって警官たちは診断を下すために私をハルピン市の病院へ連れて行き、検査が済むと、「あなたたちはこの人の家族ではないかもしれないが、どうして適切に処置しないのか、どうしてこんなに甚大な状態になってはじめて連れて来るのか? すぐに切除手術をしなければならない」と、医師は言いました。その時私は30キロの体重しかありませんでした。
2001年7月6日、不当に拘束されて8カ月目に、その土地の警察と610弁公室の人が労働教養所に来て私を家に帰らせました。家に帰ると、警官らはみんなの前で「法輪功を学んで修煉すると、乳ガンが出来て死にそうになる」とよからぬ心を抱きながら私に言い、あちこちで宣伝しました。私はその時、本当に全身が虚脱症状を起こしていて力がなかったので、目を開ける力もありませんでした。
翌日、私は帰宅しましたが、死に瀕している私に会った夫はまるで通りすがりの人のように私を扱いました。精神と身体の二重の魔難が一緒になって私を押しつぶしました。私は毎日、大きな体の苦痛に耐えましたが、夫は私にご飯を作ってくれず、相手にしてくれなかったので、体はますます弱くなり、昏睡状態に陥るときもありましたが、私には一念があり、「私は煉功者で、大法弟子なのだから、私は常人ではないので、私に病気はありません。私の事は師父が保証してくださっている」と、ずっと心の中で考えていました。唯一の一念が一筋の線のように私の命を引っ張り、それでやっと私は死とは関係ないということをはっきり認識しました。
約10日目になってから、「もうだめだ」と私は感じました。その数日間、私の頭の中はみなつかず離れず、手にはまだ大法に繋がっているこの線を握っていました。「私はいったいどうしたらいいのか?」と考えるようになり、最近の私が体験した事を振り返って見ました。交番、警察隊の隊長、友人、親類など、彼らはみな、この事を話題にしていて、「修煉して乳ガンが出来たので、あと数日しか生きられず、今にも死にそうだ」と至る所で言っていました。交番の警官と村の大隊長も私を見に来てジョークを言い、「早く小波を見に行ってください、修煉して死にます」、「あの人はおしまいだ」、「法輪功も彼女を救えない」と、他人の不幸を願うかのように他の村民に言いました。これらの話は繰り返し続けられました。私には常人の友人がいて、友人が私に会いに来た時、「私たちはあなたのために1万元を集めてあなたを病院まで運ぼうと思う」と言いました。「いろいろ考えてみましたが、やはりダメだと思いました。というのも、煉功せずに治療して大腿骨頭壊死が再発したらどうするのですか? あれも不治の病です。乳ガンは治るのですか? 今あなたは師父に求めているだけですよね。大腿骨頭壊死は煉功して良くなったんですか? あなたに能力があれば乳ガンも煉功して良くなりますよ。私たちの部落はみな法輪功を学びます。だから、あなたは煉功してください」
この話を聞いたとき、「私の生死は周囲の大法に対する態度に直接影響している」と、すぐわかりました。私の体は弱りきっていましたが、私の胸には師父と法を信じる一念が生じており、比べられるものがないくらいその一念は確かなものとなりました。「私は大法弟子だから、私にはまったく病気がなく、私は決して死にません」。どのような難が来ても私は生きて行かなければならず、陥れられて、悪人に法輪功を罪に落とさせるわけにはいきません。真相がわからない人は邪悪な虚言を信じているかもしれないので、衆生が救われることに直接影響してしまいます。「大法弟子は衆生が救われる唯一の希望です」と師父は説かれました。この法は人を済度するために来たもので、大法が良いか悪いかの印象は人の生死を決めてしまいます。もし私がこのような状態で死んでしまうと、「煉功したので亡くなった」とみんなが誤解してしまいます。大法に、そして世間の人々にマイナスの影響を与えるような不始末をしでかすことは私にはできません。私は生きなければならず、なぜなら、佛の慈悲には限りがないからです。
私の正念が現れると、奇跡が立て続けに起こりました。体はすぐにそれほど痛くなくなり、頭もこんこんとして目がさめないような事はなくなりました。体がやはりとても弱っているだけでした。というのも、私は何日も、ご飯を食べず何も飲んでいなかったので、目に力がなく開けられないような感じでしたが、「私は修煉者で、私の事は師父が見守ってくださっている」事を、私はわかっていました。
(続く)