内に向けて探し 旧勢力の妨害を見破る
■ 印刷版
 

文/イタリアの大法弟子

  【明慧日本2015年3月17日】

 私はイタリア人です。2007年に、友人に薦められて『轉法輪』を読みました。ずっと探し求めていたものが見つかったような気がして、法輪大法の素晴らしさと清らかさを感じました。家族も大法に対し、前向きな態度をとっています。

 大法の素晴らしさを体験

 数カ月後、甥が高熱を出し、すぐに業力の表れの形態を知り、すぐに大法の素晴らしい力を体験しました。当時、まだ2歳の甥が突然高熱を出し、痙攣を起こしました。病院に向かう途中で、甥は私の腕の中で意識をなくし、そして、息を引き取りました。私はこの出来事を理性的に考え直しました。

 当時の私はまだ修煉を始めて間もないころでしたが、師父が説かれた業力の問題についてとても印象深く、すぐに師父に助けを求めました。その間、ずっと甥の名を呼び続けましたが、何の反応もありませんでした。当時は、正念についてあまりよく理解していませんでしたが、その瞬間は恐怖をなくし、この子の命を取り戻さなければならないという念しか頭の中にありませんでした。師父は必ず守ってくださるという強い感じがして、この考えを第一にしようとしました。そして、いつの間にか、甥は再び呼吸し始めたのです。

 それから、甥は何日か入院しただけで退院しました。その間、妹が毎日病室で『轉法輪』を読み、甥に向かって何度も「真・善・忍は素晴らしい」と教えていました。甥は今年8歳になりますが、それから、一度も痙攣や病気にかかっていません。この経験を通じ、慈悲たる師父は我々を救うためにいらしたのだと分かりました。そして、法輪大法は真の修煉の道であることも知りました。

 自分自身の内に向けて探し、旧勢力の妨害を見破る

 心の中では法輪大法は修煉の道であることを理解していますが、修煉の道のりでなかなか精進できず、特に様々な執着心が、使命を果たす約束を守り修煉することを邪魔しました。それらは様々な形で現れ、病業や思想業力など、受け身的な態度から、無条件で協力できなくなるまで続きました。

 理性的には法理を理解していますが、しかしながら、心性に対する要求が高まるにつれ、法に同化することの難しさも感じました。初めの頃は、業力がこれほどまでに修煉と正念を妨害するとは思いもしませんでした。業力は修煉者の正念をなくし、邪道に導き、他の同修と協力させず、自分の使命を果たすことすら邪魔します。今までの経験から、これらすべては旧勢力の仕業でした。

 特に過去1年間で、地元の同修たちの間の張りつめた雰囲気を非常に強く感じました。一人ひとりが自分たちの意見を主張し、皆が師父の言われることを聞くと口では言うものの、だれも一歩も引こうとしませんでした。このような張りつめた空気の中で、衝突を避けようとした同修もいましたが、根本的な解決にはなりませんでした。

 時間が経つにつれ、私はこの集団から遠ざかりました。自分は内に向けて探しておらず、常に他人の欠点だけを見ていることに気づきませんでした。他人の欠点を見れば見るほど、修煉の厳しさと絶望を感じ、旧勢力の罠に入り込んでいきます。そして、マイナスな態度がもたらしたすべての結果を自分一人で背負う羽目になり、修煉の輪から孤立し、大法の活動や毎週の集団学法にもあまり参加しなくなりました。

 それから、旧勢力による妨害は私の生活にも静かに入り込んできました。すぐに仕事の量が増え、12時間の連続勤務になり、何度も病業を経験し、家族関係までうまくいかなくなりました。旧勢力による妨害は私の生活だけでなく、法を勉強することや大法弟子としてやるべき三つことにまで及んでいましたが、師父の『二十年説法』の中の一部の法理を勉強したことで、自分の境遇に気づくことができました。

 『二十年説法』の中で、師父はこのように説かれました。「しかし、一部の人は多くの仕事がないのに、しっかり行おうとしません。要するに、あなたは面倒なことを嫌がり、楽をしたいのです。言い換えれば、あなたは自分が行うべきことを果たしたくないのです。それではいけません。それは非常に危険なのです」[1]

 師父の教えに感謝します。自分のマイナス的な態度は大法修煉者への要求に合わないと気づくことができました。知らないうちに悪い状況をさらに悪化させ、大法弟子としての責任を果たしていませんでした。自分が無意識に隠ぺいしていた他人よりも強烈な執着心に気づくことができました。

 一時期、他人のことをずっと疑っていました。自分の意見が採用されないと、嫉妬して相手の事を敵視します。このことで心身共に疲れ切っていました。自分自身の内に向けて探してみると、私は消極的に、傲慢に状況が変わっていくのを待っていただけでした。自分が修煉できるように周りが変わるのをただ待っていただけなのです。

 師父の『さらなる精進を』を勉強した後、自分のこの態度に大きな問題があると深く反省しました。今までの経験から見れば、自分自身を修めていなければ、同修たちの協調関係を大きく妨害してしまうのです。自分の利己心に基づいて物事を考えるならば、悪循環に陥ることもあるのです。執着という名の網に縛り付けられ、なかなか抜け出せず、他人の立場になって考えることができなくなるのです。執着心をなくすのはとても難しいことです。しかし、私は以下の師父の言葉をしっかり覚えようと思います。

 「いずれにせよ、皆さんが何を行っても、大法の仕事をも含めて、できるだけ大法を第一に、法を実証し世の人々を救い済度することを第一に、大法を守る事を第一の考えの基礎にすべきです」[2]と師父は説かれました。

 業力による大きな妨害が原因で、私は真剣に問題と向き合うことをせず、修煉者の環境から離脱したことを深く反省しました。私は皆の中に入り、修煉しようと他の同修と交流しました。誠実に自分の内に向けて探し、もし、まだ隠れている執着心が残っているならば、それは無条件に協力する中で暴露しました。これは避けられないことなのです。法を勉強し、他の同修と交流することを通じ、今回の経験から大法弟子としての責任を理解することができました。

 今回の経験を通じて、自分を修めなければならない時が来たということに気づきました。新たに地元の修煉グループに戻り、活動やチームによる法の勉強会に参加するようになりました。近頃では、改めて現存の問題と向き合い、自分たちの考え方と行動を大法と照らし合わせて不十分なところを見つけ出そうとしています。

 一番はっきりとよくなったことは修煉の輪が大きく広がったことです。去年の活動に参加した人数は多くて4人の同修でしたが、今年はその2倍近く増え、同時に違う場所で2つの活動を開くこともできるようになったのです。

 この点から見れば、修煉者は経験したすべての困難をもっともよい修煉の機会に変えることができ、その中でさらに精進することもできます。業力により現れた妨害は大法弟子の足を止めることはできません。転んだときはすぐに立ち直り、次はよくなるように頑張り、あきらめず、旧勢力に隙を与えないことを認識しました。隙がなければ、迫害される理由もなくなるのです。

 2012年から、大法の活動や様々な項目を組織し始めるようになりました。その年に私はローマのGenzano(花祭り)に参加しました。このお祭りは2つの世紀をこえ、今でもつづけられている伝統的なイベントです。巨大な花のカーペットはいくつかに分かれ、2千平方メートルある都の中心街道を覆い尽くしました。

 我々はその街道で屋台をだし、たくさんの観客たちに迫害についての真相資料を配りました。その中に政府の教育部門の代表がいて、毎週、対外的に大法の宣伝をし、政府が提供してくれる場所で煉功し、政府が進めている教育課程にも参加するように我々に提案しました。

 そして、2012年の10月から、我々は無料で煉功を教え始めました。40人余りの人が参加し、5セットの煉功を勉強します。翌年も、教育部代表の方に招待され、今年もそうでした。授業で、今でもつづけている人もいれば、この法を素晴らしく感じ、恩恵を受けた人もいます。この間に、法も勉強しました。こうすることにより、煉功と法の勉強を合わせ、さらに大法について深く理解することができるのです。

 ここ2年間で、無料で功を教える勉強会の中で、迫害された真相や、法輪大法の事を教えることで、私は心性を修煉する良い機会を得ました。出発点が法になく、自分を実証することや内心の恐怖から身を守ろうとしたとき、すぐにこれらの利己的な心理を削除しなければ、必ず妨害されるのです。

 たとえば、3回目の授業で私は非常に怖く感じました。すべての人と連絡を取らなければならず、自分ではとてもその責任を負えるとは思えませんでした。授業の前日、市の代表から他の授業に提供するため、場所がないとの連絡が来ました。こうして授業に参加しようとした40人ほどに連絡しなければならなくなったのです。最初はすぐに妨害を否定しようとは思わず、自分の内に向けて探しました。

 事実上、私は人間が持つ様々な感情に陥ってしまったのです。例えば、恐怖、失敗を恐れる心、できないと恐れる気持ち、大勢の人の前で話すのが嫌で、恥ずかしいのです。これらの執着により自分がどんどん自己中心的になり、楽がしたく、困難や責任から逃れようとしました。これに気づいた旧勢力はすぐに私を妨害しました。

 他の同修も妨害と認識し、正念をもって修煉者として現実と向き合おうという同修からの意見を聞きました。

 「煉功の時にあれこれと妨害が現われてきた場合、まず自分自身から原因を捜し、まだ何か捨てなければならないものがあるのではないかと考えるべきです」[3]と、師父は説かれました。

 こうしてこれらの恐怖心をなくし、すべきことだけを考えるようにしました。そして、政府の代表と直接話そうと電話を掛けました。彼と話しているときは冷静でいられ、自分の責任を理解し、自分が何をしているのかはっきりとわかっていました。そして、彼も自分の位置を決めるために選択しなければなりません。

 授業の中断が突然だったため、予測できなかったことを伝えました。参加者の連絡先を知らず、また遠いところから来た人もいるため、すぐには連絡できないことにも耐えました。責任を負う問題について長々と話しましたが、今回の事について、責任を負うのは法輪大法学会ではないという結論に至りました。後に電話で結果を伝えると彼は言いました。私は強い正念を持ちながら待っていました。何分か後に彼から電話がかかってきました。問題は解決し、我々は毎年の授業を続けられるとのことでした。大したことのない今回の経験ですが、自分が法の中にいれば、どんな妨害であろうと私のすべきことを妨げることはできないことに気づきました。

 修煉者の厳粛さと正念は三つのことをするために不可欠であり、しっかりと自分を修めていない時にわかるのです。そして、すべての事は我々がどのようにとらえているかに関わっています。困難に遭うたび、以前の自分にならないよう余計なことは考えないようにしています。しかし、私は困難を自分を修める機会と見ています。こうすることで、旧勢力は私の欠点を利用することができなくなり、同時に、私も精進することができました。

 問題にはっきりと気付いていないとき、また、他の同修と一緒のときは、「我々はこうすべきです」、「あなたはそうすべきです」などの言葉を避けるようにしています。「私はこうすべきです」などの第一人称を用いるようにしています。

 相手が同修であろうと、家族であろうと、友人であろうと、相手を指摘し批判するのではなく、自分自身の心性を高めることを考えていると、緊張や妨害は自然となくなります。自分にはまだたくさんの執着心が残っていると分かっています。しかし、過去の自分と比べてみれば、今の自分は強い正念を持ち、自分を修め、師父の要求に到達しようと努力していると思います。

 大法の中で自分を修めるこの機会を私に与えてくださった師父に感謝いたします。

 法に合わないところがありましたら、ご指摘をお願いします。

 師父に感謝いたします! 同修に感謝します!

 注:
 [1]李洪志師父の経文:『二十年説法』
 [2]李洪志師父の著作:『オーストラリア法会での説法』
 [3]李洪志師父の著作:『轉法輪』

 (2014年ヨーロッパ法会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/10/28/299519.html)
 
関連文章