内に向けて探した体験
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年11月24日】数日前、同修が互いに会う時常人の世間話をする現象について交流文章を書こうとして、一段落を書いて見ましたが、どこかが正しくないような気がしました。振り返って書いた文章を読んでみたら、他の同修のここが正しくない、そこが正しくないと非難する言葉ばかりで、一言も内に向けて探さず、自分を反省していませんでした。まるで自分は部外者のようでした。これがどうして大法弟子のあるべき状態でしょうか? 私は自分の何かが捻れていると思い、文章を書くのをやめました。私は心を静めて、自分の内に向けて探してみました。

 このことは、表面的にはひとりの年配の同修が常に我が家に来て、常人の世間話をしていて、同修が正しくないように見えましたが、どうして私はこの事に出会ったのでしょうか? しかも、これほど煩わしく感じ、苦悩するのでしょうか? 修煉者に偶然なことはありません。ここには必ず私が取り除くべき人心と執着があり、必ず私が向上すべき心性の問題があるはずです。

 少し心を静めると、頭の中には「非風非幡」という佛家の典故が浮かんできました。六祖の慧能が深山に15年間隠居してから出山して広州の法性寺に行った時、ちょうど印宗法師が『涅槃経』を説いていました。その日、風がとても強く、寺前に掲げられていた幡(はた)が絶えず動いていました。その幡が動くのを見上げ、2人の僧が言い争っています。一人の僧が「幡動。動くのは、風ではなく幡である」と主張し、もう1人の僧は「風動。幡が動いているのではない、動いているのは風だ」と言い張って、お互いに譲りません。それを聞いた慧能が「風が動くのではない、幡が動くのではない、あなたの心が動いているのです」と言ったそうです。大体の意味は、人のすべての煩悩はみな外界から来るのではなく、自分自身の心から来るもので、心が乱れなければ、一切をはっきり見分けることができる。心が乱れたら、近いところにあるものもはっきり見ることができないということでした。

 その通りです。まさに私の常人の心が動かされたのです。

 同修が一緒にいる時に、少し常人の世間話をするのは間違いとはいえませんが、あまり長く話すとそれはそれで問題になります。なぜなら、よく世間話をしていたのは年配の同修で、彼女は特殊な人生の経歴を持っていたため、常にそのことを心にかけていて、よくその話を同修にします。両親、子供、連れ合い、親戚と隣近所のよい事、悪いことなどなどです。彼女がしゃべりだすと、数十分の時間がすぐ経ってしまい、学法もできず、煉功もできず、また恥ずかしくて彼女に指摘もできず、心のなかでは焦りながら、また仕方がないとも思っていました。それによって、内心から恨み、非難、とがめという常人の心が生じてきました。

 心が動くと「風」が動き、「幡」も動き始めます。自分の心性に問題が起きたと知り、すぐ内に向けて探したら、自分にまた強い「人の感情を害することを恐れる」という心、メンツを恐れる心、同修に対して責任を取らない心などなどがあることに気づきました。同時に自分と縁のある常人に会うと、俗世間の好きなことを多くおしゃべりし、同じく世間話をしていました。

 師父は説法のなかで私達に「出会った全てのことは、即ちあなたが自分を修煉者として見なし、自分自身のどこが間違ってしまい、正しくないのかを探すことができるかどうかを見ているのです」[1]と教えて下さいました。自分の問題を見つけたので、直ちにそれを暴き出し、根絶しました。私の内心は直ちに豁然と明るくなり、同修に対する非難、恨みというマイナス的な物質が一瞬に解体され、まったく存在しなくなりました。

 そして、私に想像できない非常に不思議なことが起きました。その同修がまた来たら、交流しようと思ったその翌日、その同修が本当に来ました。今回、彼女の状態は完全に変わっていました。5分も経たないうちに、用事を済ませ、すぐ帰ろうとしました。なんと自ら「私は早く帰らないといけません。また役に立たない常人の話をやたらに言ってはいけません。あなた達の仕事を邪魔してはいけません」と言いました。

 年配の同修のこの言動に私は驚いて言葉をなくしました。本当に信じられませんでした。彼女は私が何を考えているかを知っているようでした。どうして同修が突然変わったのでしょうか? 実際、これは疑問に思うことでもありません。これは師父が按配された、私が乗り越えなければならないひとつの関であって、内に向けて探すための試練でした。同時に、この虚像を通して、慈悲な師父は私にそれらの大法に符合しない常人の心と行為をなるべく早く取り除かせようとされました。内に向けて探すことは修煉者の宝物です。これは間違いありません。

 しかし、振り返ってみると、同修が一緒にいる時、常人の話をする現象に私達は確かに気をつけないといけません。同修はみな時間が限られています。例えば、仕事をしていない同修の場合でも、家族の食事を作らないといけないし、大法の要求されることもやらないといけません。たとえ、毎日飲み食いをやめ、寝なくても、時間が足りないと感じるのに、世間話などする時間があるでしょうか。法を正す進展がここまで来ているので、私達はみな時間を大切にしないといけません。真に精進しましょう。常人の世間話はやめましょう。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『北米第一回法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/11/7/299971.html)
 
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