災難に見舞われた時 師父に助けを求め 大法を信じる
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2015年3月4日】昨年12月2日、私は以前書いた文章の下書きを直し、別の同修に明慧ネットへの送信を依頼する予定でした。午後1時過ぎに作業を始めましたが、午後4時、5時になって、全身が縄できつく縛られたように痛くなり、眠気に襲われて辛かったので、作業を中断しました。午後7時頃、再び書き始め、午後10時には終える予定でした。しかし、8時になってから両脇が張るような感じがして、目も霞み両足が冷たくなりましたので、寝仕度を済ませてから、ベットの上で発正念をしようとしました。そこに9歳になる孫娘が塾から帰って来ました。彼女は今日の宿題もまだ終わっていないのに、国語のテキストがなくなったと部屋中あちこち探しても見つからず、ずっと泣いて騒ぎました。さらに、私が彼女の本をなくしたと言い、1時間も騒ぎました。結局、私は発正念もできず、これらの事は全て、邪悪が私の発正念を邪魔しているのだと分かりました。

 午後10時になってから、背中から胸あたりまで痛くなり、両腕はあまりの痛みで挙げられず、(発正念の姿勢ができない)30分ほど発正念しました。この時、安逸心が生じ、ベッドに横たわりました。最初は体が楽になりましたが、 しばらくすると上半身があまりの痛みで寝返りできなくなりました。やっと体を起こして座りましたが、まるで火の束の中にいるようで、全身に熱が出ました。私は床に座ろうと思い、慌ててベットから降りて座布団を取ろうとしました。しかし、あまりの痛みで全身に汗が吹き出しました。吐き気、嘔吐、下痢のような症状が一斉に来ましたが、必死に耐えて私は部屋から出ました。

 これらは全てみせかけで、邪悪による迫害であり、心が動じてはならないと思いました。この一念が生じたことで、吐き気、嘔吐、下痢の症状は全て一瞬にして消えました。しかし、ほかの良くない症状がまだ残っていました。私は同じ棟の3階に住んでいる同修に発正念をしてもらおうと思いましたが、修煉はやはり自分自身のことなので、この関を乗り越えるには自分に頼るしかないと思い、同修のところへ行くのを止めました(この時はこれは関ではなく、邪悪が無理に迫害を加えているという認識にまで悟っていませんでした)。

 あまりの痛みで全身に汗をかいていたので、ドアの外で発正念しようと思いましたが、息子の部屋に電気が付いているのを見て、 具合が悪いのを気付かれてしまうと発正念を邪魔されると考え、自分の部屋に戻りました。ドアを閉め、2、3歩歩いたら、まるで両脇を刀のようなもので切られたように感じ、腸が横から切断されたように痛みました。私は呼吸困難になり、動悸もひどく、全身が震え出し、両足から力が抜けて歩けず倒れそうになりました。

  私は絶対に倒れてはいけないと自分に言い聞かせながら必死に耐えました。その時は頭の中には痛みのことしかなく他のことを全く考える余裕もありませんでした。その時に私の潜在意識の中にある声が「邪悪が命を取りに来た、 邪悪が命を取りに来た」と言っていました。 その時、私は初めて気がついて、「邪悪に絶対に命を渡さない、私の命を奪おうと思うな」と言いました。

 壁にかかっている師父の写真を見ながら、私はゆっくり両足を前へ動かし、師父の写真の前に跪いて、両手を合わせて師父に助けを求め3回師父に深くお辞儀をしました。不思議なことにお辞儀をした時、私は誰かの手に支えられているようでした。それから床に座りましたが、まだその時私の呼吸はとても弱く、腰も折れかかっているようで、ぐらぐらして激痛が走りましたが、私の正念は金剛のように堅く、座禅して印を結び、「邪悪よ、おまえたちは本当に悪質だ。おまえたちのせいで、私は寝ている時も、立っている時も、 座っている時も痛めつけられている。今夜は、おまえたちを根こそぎ取り除くまで、ずっとこのまま座り続け、ここから立ち去らない!」と言ってから、師父に加持をお願いしました。

 そう決意ができたので、直ちに掌を立てて、胸を張り正念を強めたら、 曲がっていた腰が直ちにまっすぐになりました! 目に見えない力が腰に働いたのです。腰が二つに折れるような激痛を感じましたが、これは全て良いことだと自分に言い聞かせました。まさに師父がおっしゃっているように、「物事の善し悪しは人間の一念による」[1]のです。その一瞬、私の呼吸は正常になり、体内を刀のようなもので刺されているような感覚は、だんだん弱くなり、まるで氷の塊が沸騰している鍋の中であっという間に消えるようになくなりました。

 数分の間に全身の痛みがなくなり、何も起こっていなかったようでした。まさに「弟子の正念足りれば 師は回天の力有り」[2]です。師父はもう一度弟子の命を救ってくださいました。師父は、私の命を奪おうとするものを取り払ってくださいました。 今回これだけ酷く邪悪に迫害されましたので、私も深く自分の内に向かって探しました。せっかちな性格、何でも仕切ろうとする性格、顕示心、恐怖心、 闘争心、安逸を求める心。そして学法も怠っており、発正念もきちんと行っていませんでした。そしてまだ気付いていない執着心などの原因で邪悪に隙を与えていました。このことを経て、私は何回も反省し、他の同修のために警鐘を鳴らし、魔難に陥った同修に少しでも参考になればと思い、今回のことを文章にしました。

 近年、『明慧週刊』にも今回のことと似たような交流文章がありました。ある同修が病業のような形でこの世を去りました。これらのことに対して私はこのように理解しています。第一に、長い間気付いていない執着があり、取り除かれていない為に邪悪に迫害の口実を与えてしまいました。第二に、定められた天寿が既に過ぎたにもかかわらず、延長された時間を大事にして修煉に励むことなく、 常人の生活に執着してしまいました。第三は、大きな魔難に見舞われた時に、半分は正念をもって対処しても、半分は人心をもって、あたかもベットに横たわりながら師父に助けを求めても、師父も助けることはできず、家族もなす術がありません。 旧勢力の迫害を否定することは言うほど簡単なことではありません、

 やり遂げることは本当に難しいことです。邪悪がいくら強そうに見えても、如来佛の掌から逃れることはできません。大きな魔難が来た時に師父に助けを求め、師父を信じ大法を信じることが肝心です。それは弟子が一歩一歩前に進み、次元を少しずつ高める過程で、全て師父が注いで下さった心血と巨大な代価と犠牲があり、師父は弟子を見守って下さっているからです。師父がおられなければ私達弟子の全てもないのです。

 以上は個人的な体験にすぎません、妥当でないところがありましたら、同修の皆さんの慈悲なるご指摘をお願いします。最後に師父の経文の一段落を引用させて頂き、お互いに精進するよう励まし合っていきたいと思います。 「精進とは、彼が常に自分の行動、自分の考え方の変化に気をつけており、自分を厳しく要求することができ、常に自分を厳しく要求することができるということであり、これは個人の修煉の中で比較的精進している人です」[3]

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『転法輪』 
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「師徒の恩」
 [3] 李洪志師父の経文:『各地の説法七』「米国首都法会での説法」  

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/12/24/301863.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2015/1/4/147829.html)
 
関連文章