師と法を敬うことについて再び考える
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文/匿名

  【明慧日本2015年4月13日】師と法を敬うことに関する交流文章は明慧に多く掲載されてきました。今日は、別の観点から私自身の認識を述べさせていただきます。私達の地区の学法グループに、師父の法をものすごく早いスピードで読む同修がいます。文章の句読点がないかのように早いのです。特に新経文を読む際に、聞く側が意味を聞き取れないぐらい早いのです。しかも、その同修は文字を飛ばしたり、あるいは別の文字を加えたりすることも多く、あまりにも早いスピードで、訂正する機会もありません。また、ある同修は法を読む際に、時には声を引き伸ばしたりして、非常に聞き辛いのです。

 この現象について、個人的な認識を述べさせていただきます。私たちは宇宙の根本大法を学んでおり、大法の厳粛さと神聖さは人間の言葉では言い表せません。私たちがどんな心構えで法を学んでいるかは、修煉者にとっては非常に重要なことだと思います。法を読む過程での姿勢から、確かにその人の法を学ぶ心構えが読み取れます。法を読む際、何かの基準に達することを要求するのは難しいのですが、しかし、必ず真剣に法を学ばなければなりません。その人の読解力よりむしろ、どれだけ集中して法を学ぶかが肝心です。何ページ読んだかよりむしろ、どれだけの法を真に得たかが肝心です。形だけの学法や、法を読むだけの行為に留まるようではいけません。

 私たちの誰もが知っていますが、『轉法輪』の中の文字の一つ一つ、句読点や記号の一つ一つが師父の法身の形をしています。法を早く読む同修はどれだけの法を得たのかはさておき、その人が文字や句読点を飛ばして読んだ時、師父の法身を……どう言えばいいのでしょうか? また、任意に自分で文字を法の中に加えた時、師父の法身に……これもまた、どう言えばいいのでしょう? 私から見れば、これは師と法を尊敬していない深刻な問題です。例え、時に声を引き伸ばして法を読むことさえも、あまり厳粛ではない振る舞いです。このような法を学ぶ状態で、大法の厳粛さと神聖さを表すことができますか? なぜこのようなことが起きるのでしょうか? 魔と業力の妨害ではありませんか? もし、随時にそれらの妨害を排除しなければ、邪悪を放任し、または増長させてしまうのではありませんか?

 誰かを非難する訳ではありませんが、ただ法を学ぶ際に、このような現象を目にして、とても焦っています。交流しても中々効果が見られないため、明慧のこの一角をお借りして交流を深めたかったのです。法に沿わない部分があれば、同修の皆さんのご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/4/8/307246.html)
 
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