文/中国の大法弟子
【明慧日本2014年6月18日】修煉者として、難関を乗り越える過程で悟ることができず、師父に教化をお願いするのであれば、何も言うことはありません。これは師父を信じ、法を信じる現れだと思います。しかし時に、ある同修は師父にお願いする時にいい加減で、些細なことでも師父にお願いしてしまいます。とても丁重でも厳粛でもないように見えます。
例を挙げましょう。ある年配の同修は、病業の難関を乗り越えることができませんでした。身の回りの親戚(修煉者)は「しっかり学法し、心性が向上すれば、病業の偽りの現象がなくなります」と言いました。しかし、この同修は「師父、私を助けてください。師父、お助けください」と毎日、口にしています。しかも、ベッドの上に座っている時も、トイレに入った時でも、絶えずに口に出していました。どうしてこのように師父にお願いするのでしょうか? 師父にお願いする時は、礼儀正しく、尊崇の心を持たなければなりません。師父はこの宇宙の主佛であり、師父は私達を救い済度してくださっているのです。弟子として、勝手に師父の名前を呼び、いい加減に師父にお願いして、それでいいのでしょうか?
また、同修達の中には、家政婦を探す時も、また開店する時、店員を採用するにも、「仕事がよくでき、それに、信頼できる人を按排してくだい」と師父にお願いします。ある同修は恐怖心が強く、出張する前に「無事に行き、無事に帰れますように」とお願いします。また、ある同修は肥満していて、座禅が困難です。すると「ダイエットを手伝って、スタイルがよくなりますように」と師父にお願いします。
私は修煉者として、いい加減に師父にお願いすることはやめるべきだと思います。さもなければ、師父に対して不敬だと思います。
師父は私達を救い済度してくださいます。師父は慈悲深いので、何でも師父にお願いすることは、師父に対して堅く信じている気持ちの現れだと思い込んでいる人がいます。私はこのような考え方をする人は、悟性が低いと思います。あなたは何も悟りたくなく、何かあれば師父に直ぐお願いするのであれば、あなたの威徳はどこにありますか? 師父が何でも教えてくださるのであれば、それは「修煉」と言えるのでしょうか?
もし難関の中で、本当に悟ることができなければ、また乗り越えることができなければ、敬虔な心で、そして厳粛な態度で、師父に教化していただくよう、あるいは師父に助けていただくようお願いするのであれば、それは、私は正常だと思います。頻繁に、いい加減に師父にお願いするのは、間違っていると思います。私の体験では、悟れない時には、師父にお願いしなくても、師父が教化してくださいます。しかし、悟るべきところで、悟ることができなければ、師父にお願いしても、導いてはくださいません。
以前、私は「もし師父にお会いできたら、私は必ず幾つの問題を提出し、師父に回答をお願いし、もし問題に師父が回答してくだされば、私は普通の人ではないでしょう」と思っていました。その後、この汚い考えを取り除いた時、私は長い間、心の中から恥ずかしく思っていました。このような「顕示心」と「自分を実証する心」がまだあったのではないでしょうか? 師父は偉大で、父親のような存在です。師父の恩は永遠に報われることがなく、私達は敬虔な心で永遠に跪いて拝礼すべきです!
この前、ある同修が「地元に存在している問題を紙に書いて師父に提出し、師父にご回答をお願いするのはどうでしょうか?」と言いました。私は「師父は主佛です。あなたはそんなに小さいのに、師父に自由に書いて提出するのですか? 何かがあったら、師父を探す、これは師父に対して不敬になるのではないでしょうか? しっかり学法すれば、どんな問題も解決できます」と言いました。
これは私のちょっとした感想です。皆さんと交流したいと思います。同修の皆さんの慈悲なるご叱正をお願いします。
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/11/1/142978.html)