「天の功を横取りする」人心とその具体的な表れ
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文/遼寧省の大法弟子

 【明慧日本2014年6月14日】最近、周囲に現れる幾つかの人心及び現象を目にし、今日、同修と「天の功を横取りする」という話題について交流しました。その後、私は明慧で関連文章を探し、それを読んだ後に恥ずかしく思い赤面しました。

 見たもの、そして聞いたものに偶然はなく、ただ単に他人の物事を見て討論するだけでなく、その中には必ず私が更に認識し、自分を修正するものが含まれています。

 今回、これは本当に厳粛な話題です。明慧はこの方面の文章を数多く発表しましたが、私と一部の同修は未だはっきりとした認識を持っていないような気がして、改めてこの話題を持ち出して、自分と同修の現況も取り入れ、明慧の文章を参照しながら、同修のみなさんと交流してみたいと思います。不適切な部分があれば同修のご指摘をお願いします。

 まず、「天の功を横取りする」という成語のストーリーを見てみましょう。

中国の春秋時代、晋国の君主・文公は困窮した流浪の身を経て、やっと晋国の君主になりました。自分のために功労を立てた臣下を奨励するため、彼は自分と一緒に流浪した人たちに一等の功を与え、自分を助けた人たちに二等の功を与え、自分を迎え入れてくれた人たちに三等の功を与えました。そして、彼は詔を貼り出し、「もし誰か勲功から漏れた者がいるなら、自ら申し出なさい」と宣布しました。

介子推という名の人が漏らされました。彼は文公が食べ物のない時、自分の脚の肉を切り取って、肉のスープを作って食べさせました。こうして文公は一命を取りとめ、死なずに済みました。隣人はこのことを知り、彼になぜ賞をもらいに行かないのかと聞きました。

介子推はこう言いました。「晋の献公には9人の息子がいて、文公はその中で最も有能な一人です。文公が君主になられたのは天の意思です。もし天の意思がこうでなければ、私たちは命さえないのに、誰に功が立てられるのですか? しかし、一部の人はそれが自分の才能と功労だと誤解しています」。

「他人の財産を盗めば窃盗犯になりますが、文公から賞を頂くのは、天の功労を自分のものにすることに等しく、尚更の恥です。私はどうして天の功を自分のものにできるでしょう? 私は一生草鞋を編んでもその功を求めません」。その後、介子推は母親と一緒に綿山に隠居することにしました。

 介子推はたとえ草鞋を編んでも天の功を貪らないことから、彼の貧困に安んじる精神は尊敬されますが、彼の天を敬い、己を知る所はなおさら貴重です。

 修煉者としての私たちはなおさらです。私達が大法から知るべきなのは、「修は己にありて、功は師にあり」(『轉法輪』)です。

 修煉の過程で私たちが得たすべては大法、そして師父の無限な慈悲によるものです。法を正す中で、大法弟子は多くの法を実証するプロジェクトに参加し、良く出来たときに、どうしても歓喜心や顕示心を見せます。しかし、思わなければならないのは、「修は己にありて、功は師にあり」(『轉法輪』)です。 私たちが良く出来たことの背後で、師父がどれだけの犠牲を払われたかは計り知れません。故に、私たちは感謝や謙遜の気持ちを持つべきで、天の功を貪ってはならず、師父と大法の力を自分の能力だと思ってはいけません。

 明慧に「誇り」という文章が掲載されていることを覚えています。その中で、宗教の中で誇りが非常に大きな罪とされていると言及されています。これを読んだ当初、私は不思議に思いました。なぜそれが重大な罪になるのですか? ただ単に人間の教養の問題ではありませんか。

 学法や同修の交流文章を読むことを通じて、私は分かりました。人間は神によって作られ、人間の一切は神がつかさどる範疇にあります。人間が天上の神仏の意思に沿って物事を実行するとき、能力や知恵が与えられ、成功に導かれますが、神仏の意に反して動くとき、最終的には必ず失敗に至ります。故に、古くからこういう言い伝えがありました。「事をはかるは人にあるも、事を成すは天にあり」 事が成功するのは、神仏の智慧と按排があるからであり、事が失敗するのは、人間が天に逆らった故の必然的結果です。言い換えれば、神の意志一つで成敗が決まります。人間の一切の成就は天意に由来し、神の助けと天意に由来するなら、人間の傲慢と自大は天の功を貪り、神仏を無視し、自分を神仏の上に置くことになるのではありませんか? 神仏は人間を作り、人間の一切を成就させたのに、人間はその功労を自分のものにし、自分を顕示しながら神仏の存在を無視すれば、それは大きな罪以外の何物でもありません!

 大法修煉の中で、この種の人心は大法を実証せず、自分を実証することに表れます。

 自分を振り返ってみれば、知らず知らずのうちに大法や同修のためにしたことを他人に見せびらかし、時には自惚れていました。これは天の功を横取りすることで、身の程知らずではありませんか? 本当に危険極まりないことです!

 そして同時に、もう一つの問題に気づきました。法を正す時期の修煉が今日に至り、未だ全体の協調がうまく取れない現状の背後には、やはり修煉者に自分を実証しようとする人心があって、自我を放下できない故にお互いを排斥しているからです。以下に、自分の人心と、私が目にした幾つかの具体的な現象を書き出し、皆さんと交流したいと思います。

 一、自分の手を経て発表された文章を集める(これらの文章は私が書いたか、私が編集整理したもので、私はどれだけ重要な働きをしたでしょうかという考え)。あるいは、自分がネットで発表した三退名簿を記録し、集める(彼らは「私」が三退を手配してあげたので、「私」が救った衆生ですという考え)。

 二、大法や同修のためにしたことを他人に頻繁に話し、どのプロジェクトは自分がスタートさせたとか、どの地域の同修達を自分が「導いてあげた」などと口にする。

 三、同修の修煉状態が良くなり、向上したなら、彼らが自分と一緒に学法し、交流してきたことの結果だと思う。同修の修煉状態が悪くなれば、「自分の話を聞き入れず、内に向けて探すことができないから」だと思うか、あるいは、その同修達が自分とあまり接していないからだと思う。

 四、潜在意識の中で、自分を他の同修の上に位置づけ、いつも「私」が彼らを指導した、「私」は彼らが立ち上がるのを手助けした、「私」は彼らを向上させたなどと考える。例えば、「私」は彼らに学法や法を暗記することの重要性を認識させ、「私」は彼らに内に向けて探すことを分からせ、時には言動の中で、「私」がいなければ、この地区、この人たちは...などと考える。

 同修に問題視され、指摘されたとき、私は人心をもって「あなたたちが思っているようなことではなく、あなたたちは状況がよく分からないから...」などと釈明する。

 実際、同修が人心をもって「私」を褒めるとき、まさにその時自分の驕りを悟り、そして互いの間違いを修正すべきなのに、そう気づかずに、逆に調子に乗って有頂天になってしまいました。

 五、時に、同修から自我を実証する要素が見えたとき、私はそれをきっかけに内に向けて探さず、逆に彼らと一緒に口を揃えてその同修を褒めます。甚だしきに至っては、人心を持って彼(彼女)を崇拝し、頼り、本当に「彼(彼女)」が私たちを向上させ、「彼(彼女)」が私たちの根本問題を解決させ、「彼(彼女)」が私たちを徹底的に分からせ変えた...などと思ったりします。

 これらも、法に沿っていない認識や表れで、「天の功を横取りする」人心と観念を黙認したことになります。師父は時に、同修の長所をもって私たちに自分の不足に気づかせ、向上させようとされることがあると思います。

 いつになっても、私たちが知るべきなのは、全てが師父と法の秩序ある安排によるもので、真に作用しているのは師父と法です。相手も修煉者で、良く修めていない所や人心があります。私たちが相手を褒めれば彼の人心を拡大させ、場合によっては相手を危険な淵に押しやってしまうことにもなります。

 六、もう一つ、はっきりと認識しなければならないことがあります。例えばある同修が「私が行ってから、彼らは全員変わった」と話しているのを聞き、私は思いました。「あなた一人で、どうして変えられるでしょう?! あなたが行く前に他の同修が何回も行って、また別の同修も彼らのために多くのことをしてきました。そして彼ら自身も努力し、皆一緒に発正念しました。七枚のお餅のストーリーのように、皆が少しずづ食べて、一枚、二枚...そして七枚目(あなた)を食べてやっとお腹が一杯になりました。たまたま、あなたが七枚目の餅になっただけなのに、どうしてあなただけの功労になりますか?」

 以前、このように考えても、あまり違和感を覚えていませんでした。しかし今分かりました。実際はこの思惟も「天の功を横取りする」という観念に陥っています。誰もが師父と法を首位に置いていません。第六枚目や第七枚目の餅どころか、全ての餅は師父や法によるものです。師父や法から与えられなければ、半分の餅すら私たちは持っていませんし、ひいては命すら根本的な保障すらありません。つまり、全ては師父と大法の威徳と功労であり、私たちがいくら良く出来ても、それはただ大法に同化する過程でやるべきことをやっただけで、発揮すべき作用を発揮しただけで、言い換えれば、本分を守っただけです。良く出来なければそれは職責を果たしていないことになります!

 しかし時には、まさに私たちの人心が取り除かれていないが故に、同修や全体に一定の妨害と隔たりをもたらしてしまい、師父に多くの面倒をかけてしまいます。こう思うと、本当に恥ずかしくてなりません。これからは時間を大切に真に修めるのみで、これ以上「自己顕示やうぬぼれ」などを考える勇気さえありません。

 もっと謙虚になり、着実にすべきことを実行し、上記のような人心や言動に警戒、修正し、常に師父と大法を一番に置き、真に師と法を敬い、それこそは修煉者の本分です。

 少しの感想ですが、次元に限りがあって、妥当でない部分があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 合掌

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/6/10/293053.html)
 
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