再び「顕示心」と「歓喜心」について悟る
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年6月17日】長い間、私は自分の「顕示心」と「歓喜心」をどうしても抑えることができませんでした。何か珍しい情報を手にしたり、少し成果を得ると、よく同修に自慢して、他の人とは異なることを顕示しました。時には自慢話が口から出たとたん、すぐに「口を修めていない」と認識し、悔しい気持ちでいっぱいになりました。しかし、その後、私はどうしても我慢できなくなり、つい口から出てしまうのです。私はこれらの執着心はよくないと分かっていました。深く探してみると、「見栄を張る心」「優越感を追求する心」「名利を求める心」があると気づきました。どうすればこれらの執着心を取り除くことができるでしょうか?

 ある日、バスに乗っているとき、急に「顕示心と歓喜心は次元が低い現れだ」という一念が頭の中に浮かんで悟りました。その通りではありませんか! どうして人より優れていることを追求したり、優越感を味わったりするのでしょうか? 自分の次元が低いからこそ、こうなるのではないでしょうか? 神佛は一念により、直ちに天と地を開くことができます。常人さえ、自分でご飯が食べられるとか、水を飲めるくらいのことを自慢げに表に出して、顕示するでしょうか? 修煉者として、良好な修煉状態を保つことは当然のことですが、歓喜する必要はなく、なおさら自慢することもありません。

 師父は「この方面において能力のある人がおり、あの方面において能力のある人がいますが、これでうぬぼれてはいけません。私にこれほどの腕があるなど云々しますが、それは法があなたに与えた能力です! あなたはそれほどの能力に到達しなければならないのです。法を正すことはあなたの智慧がそこまで達することを必要としているため、自分がいかに有能かと思わないでください。私に自分の腕を披露した学習者がいますが、実は私が思うには、これは皆私があなたに与えたもので、見る必要などはありません」[1]と説かれました。

 私達はあることがよくできたり、正しく行ったりしますが、それは法に基づいて、師父の要求に符合しているので、私達はその正しい状態に達するべきなのです。達しなければ、いけないのです。歓喜したり顕示する価値があるでしょうか?

 大法は無辺で奥深いもので、いまだに、そのわずかなことも研究することができません。大法の要求に比べて、私達の次元はまだまだ低いのです。この次元の法理を悟るたびに、さらに大法の奥深さ、玄妙さ、超常さに敬服し、自分はいかに小さいかと感じました。師父と大法の前には、比類のない謙遜と感服しかありません。ここまで考えたら、突然、私は「歓喜心」や「顕示心」はつまらないと感じました。独りよがりの思いも薄らいできました。ただ冷静に、理知的に、着実に修めてこそ、自分の次元を向上させることができるのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇〇三年元宵節での説法』

 
(中国語:http://big5.minghui.org/mh/articles/2011/10/10/247599.html)
 
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