内に向けて探し、トラブルの中で自分を修める (一)
■ 印刷版
 

文/山東省の大法弟子

 【明慧日本2015年5月10日】私は44歳の農村の大法弟子です。2005年から修煉を始めました。家族全員が修煉しています。私はこの場を借りて、修煉の中のいくつかの出来事を書き出して同修と交流すると共に、偉大なる師父へご報告したいと思います。

 以下は私が衝撃を受けたことの一つです。わが地区では、資料拠点はまだ少なく、3人の同修が資料作りを担当し、使う設備や消耗品も自身が実費で賄っています。今年、新しい協調人が来られ、皆が彼の協調を気に入っています。しかし、私はこの協調人に意見を持っていました。彼は同修を排斥し、お高くとまっていて、口を修めず、意見を受け入れず、法会に参加する際はいつも携帯を所持し、自分の安全に気を使わないだけでなく、同修達にも危険を齎しました。私たちは誰もが内に向けて探さず、旧勢力に隙を乗じられ、徐々に私たちの間に隔たりができてしまいました。全体に問題が生じた際も、私はめったに協力せず、協調人を見下していました。

 わが家は家庭資料拠点として、50数人の同修達に真相資料、『明慧週刊』及び師父の説法を提供し、2台のプリンターで印刷していました。ある日、ネット用のカードの残高が無くなって、私は新しいカードを買ってきました。しかし、試してみると、ネットにつながりませんでした。同修の家にもって行き使ってみたら正常でした。しかし、自分の家ではどうしてもネットにつながりません。自分の心性の問題ではないかと考え、内に向けて探しましたが、執着をたくさん見つけたにもかかわらず、やはりネットへの接続は失敗しました。

 こうして1週間が経ち、もう1人の資料担当の同修にこの件を伝えると、その同修はおかしく思い、私の家を訪ねました。コンピューターに電源を入れ、カードを挿入し、デスクトップの画面に現れた一つのアイコンに指さしながら、「信号質量はゼロですよ。どうしてネットにつながりますか」と言いました。私がこの事情を業者に伝えると、業者は新しいカードを差し出しながら、「あなたが使っているのは移動式カードで、カバーする範囲は狭いかもしれません。このカードなら大丈夫です」と言いました。帰宅後、私は早速新しいカードをコンピューターに差し込みました。しかし、コンピューターはこのカードを認識しませんでした。再び、私はコンピューターを持って業者を訪ねました。業者の人はコンピューターを操作しながら私に、「どれくらいプログラムの更新をしなかったでしょうか?」と聞きました。私は「2年です」と答えました。業者は私のコンピューターを操作しながら、「いくつかのプログラムは恐らく無くなっているでしょう」と言いました。

 私はプログラムを入れるのが分からず、技術担当の同修の助けをもらえるよう協調人に頼みました。協調人は、「できたら、電話で連絡します」と言われました。半月家で待っている間、4回も電話を入れると、最後に「取りに来てください」と言われました。

 コンピューターを受け取りに行った際、協調人の同修に「資料はもう作らなくてもいいですから、学法に専念して下さい。何をやっても修煉できますから」と言われました。これを聞いて、私はすごいショックを受けました。「私のどこかに問題でもあったでしょうか? 自分ではよく分からないので、教えてもらえませんか?」と言いました。同修は不機嫌な顔をしながら、「それなら、はっきり言いましょうか。あなたが作った資料の中に、ページが間違っているものが数冊あります。また、二期ほど『明慧週刊』が作られていませんでした。それに、あなたは一部の同修を丸め込んで、全体に妨害を与えています」と怒った声で言いました。私に気づかせようと、同修は更に「『オーストラリア学習者への説法』を良く勉強して下さい。その中の、2人の学習者が大紀元の責任者として勤めていた際、解任されたり、又は他人にスパイと言われている部分の師父の法を良く読んでみて下さい」と言いました。ちょうどその時、もう1人の協調に参加している同修がいて、こう言いました。「それだけではありませんよ。あなたは協調に従わず、それに……家に帰ってしっかりと法を学び、そして、よく内に向けて探してみて下さい」

 同修は私の多くの不足を指摘し、話せば話すほど身が震えるほど興奮して、私のことを限界まで耐えて来たようでしたが、しかし、私はそれについて少しも気づきませんでした。最後に、私はコンピューターを見て見たいと言うと、協調人は言葉を濁し、「パソコンは別の同修のところにある」と言いました。

 このパソコンは私の友人として4年間働いてきて、多くの大法の真相資料を生み出し、すごい生命です。私はよくパソコンと交流し、彼とスムーズに協力し合い、離れるのは嫌でした。修理の為に同修に渡した間、私はずっと気にしていました。今やっと直ったと聞き、見たくて、キーボードに触りたかったのですが、見るどころか、同修に散々指摘されました。私は全身の気力を失い、悲しくてたまらず、ふらふらと同修の家を出て、つまずいて転ぶところでした。

 帰宅後、私はこの件について妻(同修)と交流しました。彼女はこう言いました。「そう言われたなら、やはり同修達が見るには、私たちのどこかが法に沿っていないようですね。明日プリンターを同修の所に持って行きましょう。衆生救いに支障をきたしてはなりません。同修のいう通り、多く学法し、内に向けて探してみましょう」

 師父は仰いました。「いずれにせよ、修煉者として、必ず修煉者のやり方、修煉者の考えで物事を考えなければならず、決して常人の考えで物事を考えてはいけません。あなたがぶつかったいかなる問題も単純なことでも、偶然なことでもなく、常人の中の問題ではありません。必ず修煉に関係があり、あなたの向上に関係があるのです。あなたは修煉者なので、あなたの生命の道は変えられ、あなたの修煉の道は新たに按排されたものなので、この道に偶然なことはありません」[1]

 師父は私の執着が見え、同修の口を借りて私を悟らせようとされました。私は本当に心を静め、きちんと法を学び、内に向けてよく探してみるべきだと気づきました。これらのことに遭遇するのは必ず私にそのような心があったからだと思いました。じっくり考えてみると、自分は資料を作る際、時には上の空になったり、雑念が多かったり、心境が清らかでなく、真面目にせず、ページを間違えても気にせず、二期ほど週刊を作らなかったことに対して気にも留めませんでした。これは全体への無責任、衆生への無責任、そして自分自身の修煉に対する無責任です。修煉は厳粛なことで、大法の資料を作り、衆生を救うことはどれほど神聖な事でしょう。良く作れば、法を実証し、できなければ、衆生に大法に対する悪い印象を植え付けてしまうでしょう。

 同修は大法に責任を持つ立場から私に指摘したのでしょう。協調人は私が一部の同修を丸め込んで、全体に妨害を与えたと言ったことも、必ず私に問題があると思います。そうでなければ、なぜ協調人は他人を指摘しないのでしょう? わが地区は他の地方から『九評』を調達しています。以前、私は『九評』を作ったことがあり、協調人に相談し、自分たちで作ってみようと提案しました。しかし、協調人は私が作ったものの品質が良くないと言って、私の意見を受け入れませんでした。私は他の地区の品質を目指してやれば出来ると言いましたが、それでも協調人は私の意見を却下しました。私は納得いかず、自分のやり方が法に沿っていると思い、2人の同修に連絡し、一緒に『九評』を作り始めました。一部を仕上げた後に、この件は協調人に知られ、資料作りを止められました。

 (続く)

注:

1.李洪志師父の著作:『ロサンゼルス市法会での説法』 

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/5/31/274664.html)
 
関連文章