師と法を敬う問題について談じる
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 【明慧日本2015年12月14日】師を敬い、法を敬うことに存在する問題についての記事が『明慧週刊』に数多く掲載されたことがありました。以下に最近起きたあることを挙げて師を敬い、法を敬うことに関する問題を書き出して、同修の皆さんと交流したいと思います。

 11月12日、師父の新経文を読み終えて、師父の各地での説法の本を探そうと思いました。、大法の本を入れてある鞄を取り出すと、不注意にカバーされた一冊の大法の本が目に入り、その本を取り出しました。カバーには水に濡れた痕がまだ残っていました。私はこのような紙を、大法の書籍のカバーとして使うことは師父や法に不敬であると思いました。そこで、カバーを外したら、また驚きました。カバーの裏側に一人女性の絵が写っていました。その女性はロングヘアーで、厚化粧をしていて、洋服は半分体からずれ落ちていました。多分雑誌の表紙だと思います。その時、厭わしい気持ちになり、二度とこのカバーに触れたくないと思いました。

 この本は同修である、私の姑のものです。この本をカバーする時に、多分、本を大切に使おうと思い、あまり深く考えていなかったのかもしれません。今日、私が見つけたことは偶然ではないと悟りました。そして、私は自分の修煉の中に存在している問題を見つめなおして、師を敬い、法を敬うことの文章を書く決心をしました。

 同修が大法の書籍を清潔に保ちたければ、市販の白紙や、透明のフイルムを使えば良いと思います。師を敬い、法を敬う事に基づき、チラシや、文字或は絵等が書かれている紙を、大法書籍のカバーとして使うのは、相応しくないと思います。また書名をそのカバーの上に書くことも、不適切だと思います。同修がカバ―の上に書いている書名を見たことがありますが、筆跡がぞんざいだったり、なにが書かれているのか読みとれなかったりします。大法書籍の中の全ての文字は法であり、私たちは慎重に扱わなければなりません。

 また、学法する時に、集団学法にしても、一人でする学法にしても、専念しなければなりません、法を読むときのペースを均一に保たなければなりません。私が経験したいくつかのケースをお話します。ある同修は法を読むときのペースが非常に速いのです。その同修が何を読んでいるのか聞き取れません。ある同修は頭が留守になっていて、自分の順番が来ても、どこから続けて読めばいいのか分かりません。ある同修は法を読むときに速すぎて、文字が抜けたり、増えたりしています。間違えれば、その文の最初からではなく、間違えたフレーズから続けるのです。これなら、法の本来の意味を変えてしまうのではないでしょうか。学法する時に、少しばかり真剣に取り組めば、してはならない過ちもなくせると思います。

 以前、ある学法グループで、学法しながら、物を食べたり、ドリンクを飲んだりする学習者がいました。、このような行為はさらなる法と師に対する不敬な行為です。この同修の行為を指摘したこともありましたが、数日しか効果がありませんでした。

 集団学法はとても良いことで、わずか数時間しかありません。形式に流されずに、大切にすべきです。古い同修は新しい同修の良いお手本にならなければなりません。また、神韻公演を鑑賞する時にも、水を飲み、ものを食べる行為を目にしました。神韻は師父が自ら率いておられ、ほかの空間の中では神々が演技されているのです。修煉は厳粛であり、普段の何気ない言動は、その学習者が師父や大法にどれほど敬意を払っているのかが、一目了然です。

 また、煉功発正念の時に見た問題点についてです。煉功の姿勢が正確でなく、法輪を丸く抱えることができず、或は全く音声の師父の指示に合わせることが出来ていません。もし、直ぐに改めて師父の煉功入門ビデオをもう一回見て、動作を直せば、師父が私たちに下さった気機が偏ることもありません。

 正念を発する時の手振りも正しくなければなりません。ある同修は掌を立てている片手が口元の近くまで傾きました。大蓮花手印の時の手はほぼ胸の前に掌を立てなければなりません。そして、正念を発する時に、うとうとする学習者も少なくありません。掌が逆さまになったり、蓮花手印の両手がくっついたりしている学習者はその代表者なのです。発正念することは邪悪を取り除くために、師父が私たちに下さった神通力です。邪悪に妨害されてはなりません。頭をはっきりさせて発正念し、師父の私たちへの要求に近づける努力をすることこそ、師父と法に敬意を払う表れなのです。

 私は煉功や学法する時に、パジャマを来たまま、或は布団の中に潜ったまま、横になったまま行うことは師父と法に不敬だということを認識していましたが、改めませんでした。ここに書き出して、自分のこの漏れを暴露して、私の様に行っている同修と一緒に改めたいと思います。私たちが修めているのは宇宙の大法です。師父は私たちに、法を以って師とすることを教えてくださいました。大法を前にして、どうして身なりを粗末にすることとができるのでしょうか。天上の神々は膝まづいて学法しているのだと言いますが、ならば、私たちも身なりをきちんと整えなければなりません。

 以上は私は修煉の中で経験し、目にしたことです。書き出して同修の皆さんと交流して、一緒に修めて、師父と法に不敬な表れを取り除くことを望んでいます。同修の皆さんと共に向上し、共に精進して、共に円満成就して師父について元の家に帰りましょう。

 不適切なところがあれば、ご叱正をお願い致します。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/12/5/320068.html )
 
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