感恩
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 【明慧日本2016年2月20日】修煉中の私達はそれぞれ違う次元にいるため、問題に対する認識が違ってくるのは当然なことで、正常なことだと思います。

 しかし、一部の同修は衆生を救うプロジェクトに参加する途中、他の同修のやり方が自分の考えに合わないという理由でいきなり離れてやるべきことをせず、ほかの同修に不便をかけたことを見ました。また、参加していないプロジェクトに意見を持ちながらも正面から提案せず、陰でコソコソと議論する同修も見ました。他に、佛学会の責任者や、プロジェクトの責任者、あるいは他の同修に対する怨みごとをよく口にする同修もいましたなどなど。

 私達修煉者の言葉にはエネルギーがありますが、そのような言葉を口にすれば、どのような作用を働かせるのでしょうか? 個人的に思うには、心境を整え、角度を変えて物事を考えてみれば違う認識が得られるはずです。

 中国大陸から出て来た大法弟子として、私は修煉の当初から今までの十数年の間、同修やプロジェクトの責任者、あるいは佛学会の責任者に対し、怨みごとを思ったことは一度もなく、感恩の気持ちしかありませんでした。

 当地で大型な活動が行われた時、私は感恩の気持ちでした。同修達は忙しく展示板を立てたり、横断幕を張ったり、フルセットの音響機器を設置したり、活動場所を申請したりするなど、様々な準備作業を行ったおかげで、私達には活動に参加する機会が与えられました。

 グループ学法に参加する時、私は感恩の気持ちでした。同修達は学法の場所を見つけて使用許可を得て、内装を行い、毎週の衛生管理等々を行ったりして、多くの同修が苦労されたおかげで、私達は快適な環境を有することができ、共に学法し、交流することができました。

 大法の真相資料を手にする度に、私は感恩の気持ちでした。資料の背後には編集や印刷、運搬などなど、多くの同修達の辛労が隠されています。そのすべては私ができないことです。

 同修が『大紀元時報』や真相資料を車で家まで届けてくれた時、私は感恩の気持ちでした。私は少し時間をかけて、それらを配ればいいことですから、やらない理由はありません。

 同修に何かを頼まれたとき、私は感恩の気持ちでした。私にそのような能力があれば、必ず受け入れます。同修が頼んできたのは、他の同修に不便があるか、または何かの事情でできないので、参加する機会を与えられたことにいつも感謝しています。

 メディアを利用し真相を伝えるプロジェクトに参加する機会があって、私自身の能力に応じ、簡単な基本作業を行ってきました。毎回、パソコンの前に座ったとき、私は感恩の気持ちでした。多くの同修が力を出し合って行っているプロジェクトですので、私は少しの補完作用でも果たすことができればと思っていました。

 同修の不足に気づいたとき、私は真正面から自分の意見を伝え、その意見が採用されるかどうかは気にしませんでした。なぜなら、私の知らないところで、同修も自分自身の情況に応じた考えがあると思ったからです。また、中国語が未熟な同修が法理に対する認識がはっきりしていないと感じた時、私は個人的な法理についての認識を持って同修と交流を行いますなどなど、私は怨みごとをひと言も言わず、コソコソと私語をしませんでした。

 同修の皆さん、他の同修の言動が自分の考えに符合するか否かに関わらず、肯定的な支持を与えて下さい。また、意見があれば陰でコソコソと言わず、正々堂々と面と向かって自分の意見を言って下さい。その意見が採用されなければ、恐らく同修自身の考慮がきっとあるはずです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/2/14/324142.html)
 
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