自分に優しくされなくても善の心で対処する
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年2月18日】むかし、ある住職が托鉢に行き、夕方戻る途中、ある村に辿り着くと、大雨が降り始めました。このままだとお寺に帰れないと、住職は一晩泊めてほしいと、大きな家の門を叩きました。家の執事が出てきて、「何の御用ですか?」と尋ねると、住職は「大雨で、寺に戻ることができないので、一晩泊めてくれませんか? どんな部屋でも構いません」と言うと、執事はすぐにご主人に伝えました。しかし、ご主人は拒否しました。雨が増す一方で、空も暗くなったので、住職は仕方なく門の下で一晩過ごすことにしました。

 夜が明けて、雨も止んできました。執事が門を開けると、びしょびしょに濡れて、震えている住職の姿が見えました。住職は執事を見ると、「このお宅のご主人は何という名前ですか?」と尋ねると、執事は考えもせず答えました。言った後で不思議に思った執事がそのことを訪ねると、和尚はニコニコ笑うだけで、何も言わず、お寺へ帰りました。

 それから半年後、この家の側室がお寺に香をたきに行ったとき、お寺の本堂の柱に自分の主人の名前が刻まれているのを見て、びっくりしました。慌ててそばで案内してくれている和尚に聞いてみると、和尚は「うちの住職が托鉢に行った時、夕方寺へ帰る途中、大雨に遭いました。一晩泊めてほしいと一軒の大きなお宅を訪ねると、そのご主人は拒否しました。住職は仕方なく、そのお宅の門の下で一晩を過ごしました。帰ってきてから、何日も口を開かず、その後、この名前を本堂の柱に刻みました」と答えました。

 話を聞いた側室は、「それでは主人への恨みを忘れられず、柱に刻み、呪うのですか?」と聞くと、和尚はすぐ説明しました。「うちの住職はこう言いました。この施主は私を泊めてくれなかったが、それは前世に私が悪縁を作り、善い報いの因果が作れなかったからで、悪いのは施主ではなく、私です。善い事をしなければ、当然善い報いもないので、施主を恨みません。彼の名前を本堂の柱に刻み、毎日念じて彼の家を栄えさせ、福を得させてこの悪縁を解消するのです」と言いました。

 これを聞いて、側室は感動して涙を流しました。そして、家に帰って、この事をご主人に伝えました。数日後、ご主人は自らお寺へ向かい、住職に謝り、しかも「今後お寺全員の毎年の食料は、全部私が供養します」と申し出ました。

 似たような事は恐らく誰でも遭ったことがあると思いますが、どんな心理状態で対処するでしょうか? 本当に和尚のような境地に達するには、口で言うほど簡単ではありません。千万年来、輪廻転生の中で、形成してきた「トラブルがあったら相手のせいにする」という人間の理は、「トラブルがあったら、自分の問題を探し、傷つけられても、相手を恨まず、善で対処する」と謂う修煉の理に相反していますので、容易なことではありません。

 以前私は常人の友人と一緒に商売した時、彼に精神的に大きな傷をつけられました。それから、長い間私は放下できず、彼を恨んでいました。大法弟子はお寺の和尚にも及ばないのか? 師父の法から、大法弟子の境地が如何なるものかを知っているにも関わらず、なぜ達することができないのか? と思うと、やはり人間の観念を放下できないからだと分かりました。自分が傷つけられると、ついつい人間の理で考えてしまいがちです。そして、繰り返して師父の法に照らし、観念を変え、断固として師父の教えの通りに行いたいと決意すると、自分を苦しめていた魔性が消えました。それから私はこう思うようになりました。「あなたは私の修煉を手伝ってくれたので、私も必ずあなたを救ってあげます。受けた傷を大きな善の報いでお返しします」

 数年来、このストーリはずっと私を啓発し、励ましてくれています。同修のみなさんにも参考になればと思って書きました。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/2/15/324183.html)
 
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