全ての考えを着実に修めてこそ、本当の精進である
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年10月14日】自分と周りの多くの同修の修煉過程を振り返ってみると、非常に深刻に感じたことがあります。それは多くの同修が非常に大きな魔難(厳しい病業や迫害)に遭った時、やっと内に向けて探し、学法の重要性を認識し、発正念を重視するということです。もちろん、その時に認識できれば、それも素晴らしく、それで多くの同修は当時の魔難を乗り越えることができます。しかし、魔難を乗り越えてからは、いかに着実に修めるかを本当に認識することができず、一つの問題が現れました。圧力の中、魔難の中、一時的に精進しますが、圧力が軽くなると、或いは目の前の魔難を乗り越えると少し気を緩め、時間が経つとまた気を更に緩め始め、精進しなくなるということです。まるで傷が治ると痛みを忘れてしまうかのようです。そして魔難は繰り返して訪れ、受身的に修め、本当に精進することができません。

 私は以前精進する状態を保つことができず、失敗したことがたくさんあります。主に色欲の関を乗り越えられませんでした。この数年間、この方面で数え切れないほど失敗しました。毎回失敗すると、色欲の背後にある原因を探しました。強い自我、嫉妬心、安逸を求める心、名利心、闘争心、歓喜心などが見つかりました。確かにこれらの執着心を見つけてから、しばらくは精進できましたが、その後またダメになりました。何回も困惑し、苦しみと絶望を感じました。当時、確かに色欲とその背後の執着心を取り除きましたが、どうしてしばらくするとまた駄目になるでしょうか?

 私がそれほど精進していない状態であっても、慈悲なる師父はずっと私を手放すことなく、私にまだ改善しようとする心があることを見ておられます。一度、学法する時に、師父は悟らせてくださいました。当時、一篇の経文をクリックするつもりでしたが、『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』が突然現れました。私は必ず偶然ではないと思い、真面目にこの経文を再び学び始めたところ、「不愉快なこと、機嫌を損なうことに出遭ったとき、個人の利益や自我が刺激されたとき、内に向けて見ることができ、自らを修め、自分の漏れを探し、トラブルの中で自分が間違っていなくても、『分かった。きっとどこかに間違いがある。本当に間違いがなくても、以前の借りを返しているのかもしれない。正しく行い、返すべきことは返す』」という内容を読み取りました。

 この段落の法は私の心に深く刻まれました。私は瞬時にして、なぜ非常に長い間、人に指摘されるとすぐに怒り出し、辛い思いに耐えきれず、すぐにまた怒り出す状態になったかが分かってきました。なぜ、そんなに怒るのか? ほかでもなく自分には責任がない、自分は悪くない、罪はないと思っているからこそ、具体的なことの中でつ付き纏(まと)われ、ずっと心にかけ放下できなかったのです。

 師父はまた「本当に間違いがなくても、以前の借りを返しているのかもしれない。正しく行い、返すべきことを返す」と説かれました。私は自分にこういう概念がなく、できた借りを返そうとしなかったことに気づきました。その日、ずっと私を妨害していた物質が取り除かれました。その後、私はここの段落の法を暗唱し、時間がある度に暗唱しました。毎回新しい内容を悟り、度胸もすわり、いろんな環境の中で理性的に、穏やかに突然発生したトラブルに対応できるようになりました。家庭でも、職場でも、耳障りな話を聞いた時、誤解されて辛い思いをさせられた時、表面的には公正でないことに出遭った時、私はすぐさま「あ、これは借りを返しているのだ」と思い直し、心が一瞬にして穏やかになります。しかも、次からは自分のどこが間違っているか、内に向けて探せるようになりました。以前なら、飛び上がったはずです。しかも、いつでもどこでも起こりうるトラブルに直面すると、法に照らして、内に向けて探し、毎回修煉はこれほどすばらしいものだと感じ、着実に修煉してからの昇華は、なおさら嬉しいことに思えました。

 色欲は表面の表れであり、着実に修めないことこそが背後の実質である

 少しづつ、少しづつ私は、ずっと長い間私を邪魔していた色欲が、取り除かれていることに気づきました。たまにそれが現れた場合、念が正しければ素早く取り除かれます。なぜなら、着実に修める中、自分がタイムリーに各種の思想の正邪、良し悪しをはっきりと分別することができ、しかも、現在は非常に落ち着き、以前のように、一時的にできても落ち着つかない状態ではなくなりました。色欲をこのように取り除けるとは、思いつきませんでした。

 私が思うには、色欲がどうしても取り除けない時、私たちは色欲の現れ自体を取り除くことを重視するだけでなく、更に普段の修煉において問題があるのではないか、根本的に自分を修煉者として扱っていないのではないか、現れた各種の人心と執着心、各種の情に対して、嬉しいのか嬉しくないのか、愛しているのか、それとも恨んでいるのか、誰が良くて、誰が良くないのかを含めて、タイムリーに取り除いているかどうかを考えるべきです。色欲は情から派生したもので、各種の情が非常に重い人に、色と欲がないというのは人を欺き、自分をも欺くことです。しかも法を正す中、邪悪は私たちが法を実証することを妨害しようとして、情を拡大し、誰かの色欲を強化させることは非常に容易いことです。実際、色欲は旧勢力が大法弟子を台無しにさせ、大法弟子が法を実証することを妨害する一つの手段でもあります。色欲は表象であり、着実に修めていないことがその背後の実質です。

 普段から自分の考えを着実に修める

 後になって私は気づきました。自分が長い間、本当に精進できなかった原因は、普段から自分の考えを修めておらず、自分がよく修煉できていると思う時、緩んだ環境と状態の中で、多くの場合修めることを忘れていました。不愉快なことやトラブルに遭った時、自分が修煉者であることを全く思い出せず、どんなことに遭遇しても乗り越えられず、家族の前や家庭の中では、更にわがままで、怒りたければ怒り、言いたければ言いたいほうだいで、外では多少気を使いますが、家庭の中では全く自分を修煉者として扱わないのです。このような修煉は条件が付いていて、時間と場所を選んで修めることになります。しかし、満天の神々はこんなふうにみないし、虎視眈々と見ている邪悪は、私たちのこのような現れに対して、求めても得られない機会だと思います。普段いかなる環境、いかなる時間でも、着実に修煉する概念がありません。往々にして魔難は積み重なり、ますます大きくなり、肝心な時になると、心性の関を乗り越えられなくなります。失敗して非常に苦しい時、やっと自分を修めないといけないと思い出します。しかし、もたらした損失はもう補うことができません。

 時に私はこう思います。もし、師父が私たちを大切に扱い、繰り返して私たちのために代価を支払い、肩代わりしてくださらなければ、私たちの良くない心性では、とっくに旧勢力により地獄に打ち落とされていたはずです。しかし、この過去を振り返ってみると失敗を繰り返しながらも、ずっと学法を続け、倒れても急いで立ち上がり、続けてやるべきことをやり、消沈しすぎるとか、自暴自棄に陥らなかったので、慈悲なる師父は、私を助けることができたのでしょう。師父は常に私たちを助けようとしておられ、私たちが師父の助けを受け入れるかどうかが肝心です。

 あまりにも多くの教訓を経験して、私は深刻に認識しました。私たちは重い病業状態が現れたり、迫害されたり、損失が非常に大きい時、やっと内に向けて探し、やっとのこと精進するようではいけません。それは実際強いられて精進していることなので、本当の精進ではありません。私たちは観念を変えるべきです。ただ大きいことにぶつかった時だけが、関を乗り越えることではなく、私たちの毎日の生活、仕事、法を実証する中にも、常に乗り越えるべき関があります。いかに考えの中、随時に浮かんでくる誰がよくできて、誰がよくできてないか、私が正しく、あなたが間違っているとか、昔のことを掘り返すとか、恨み、嫉妬心、色欲、恐怖心など、いかに他人が突然自分を非常に怒らせる言葉を口にしたとか、そういう時にどう対応するか、いかに突如現れたつらい思いと無実の罪に対応するか、その中でまさに1分1秒で向上できるかもしれません。また、落ちてしまうかもしれません。人心は私たちが準備できたときに現れるものでもなく、或いは私達がこの時だと思う時に現れないかもしれません。ただ普段から、いかなる状況下でも一つ一つの考えを着実に修めれば、それこそ本当に精進することです。一時期一生懸命やるのは容易いのですが、長い間継続し、平凡で寂しい中、堅持することこそ最も難しいことです。

 もし私たちが普段から自分を修めることを重んじていなければ、それはまるで大事が訪れたら、修煉しようとするようなもので、普段出会うことを偶然な小事とみなしてしまい、常に自分のいろんな魔性を放任し、いつも人心と長い間形成された人間の観念を、生活する中、仕事する中、法を実証する中でこのすべてを量ります。それはつまり師父が私たちのために按配された各種の修煉の機縁を見逃し、修めることができないことになります。修煉はまるで水を遡(さかのぼ)って運行する船のごとく、このようでは絶えず下へ下へとすべり落ちることになり、あれらの敗物と業力は消去されなければ、絶えず積み残され、時間が長くなると巨大な魔難と乗り越え難い大きな難となり、様々な厳しい病業の状態が現れ、また迫害されたり、邪魔されたりします。もし私たちが普段からすべての考えに注意しながら、着実に修めれば、乗り越えられないほど大きな関と難は、現れることが滅多にないのです。

 修煉の道のりには必ず以前借りた各種の債務と、現在作っている業の返済が発生します。しかし、以前の修煉方式では、例えば、人を殺したら自分の死をもって償うのでは、修煉できません。しかも、私たちが以前異なる次元で神に借りた債務は、更に返済できません。しかし、大法は限りない法力と智慧で、私たちのために絶対多数の業力と債務を消去してもらえます。師父はただ、私たちを成就させようとしておられます。師父が私たちに按配されたすべては、私たちが乗り越えようとすれば、乗り越えられるのです。師父は私たちの借りた巨大な業力を少しだけ残し、それを私たちの心性の関に分けて置かれており、それをもって、私たちを向上させようとしておられます。ただ私たちが自分を修煉者とみなし内に向けて探し、心性を向上させさえすれば乗り越えられ、私たちが借りた巨大な難は、師父が私たちを助けて消去してくださいます。もし私たちが普段から師父のお話を聞き、自分が大法修煉者であると自覚していて、真・善・忍で自分を要求し、常に内に向けて探し、普段から1分1秒を大事にし、すべてのことにおいて、着実に修めれば、絶えず良くないものと業力を取り除くことになるのではありませんか。師父は私達のためにすべての悪い縁を善解し、私たちが法を正す修煉の路のりで順調に歩んでいけるようにしておられます。ですから、私たちが出会うことには、何一つも偶然なことはなく、小事なことであるでしょうか! 皆私達を向上させるために設けられたものです!

 もし私達が普段から着実に修煉することを重視せず、関を乗り越えられず、心性を向上できず、師父の按配された毎回の業力を消去する機会を見逃し、業力を消去できず、毎回後ろへ積み残していては、巨大な乗り越えがたい魔難になりはしませんか! しかも、着実に修めていなければ、本当に精進していなければ、それはほかでもない師父のお話を聞いていないことではないでしょうか! 師父のお話を聞かなければ、旧勢力は口実をつくり、あなたを制御し、すると難は大きくなります。なぜなら、旧勢力の按配したものは、私達を壊滅に向かわせることであり、もし、旧勢力がわざとあなたを台無しにしないとしても、あれらの巨大な業力、極めて複雑な怨念は解かれるのでしょうか。バランスが取れるのでしょうか。旧勢力の按配したそれらの方法と手法の中、あなたは自ら以前に作った全ての業力を償わなければなりません。誰がそれに耐えられるでしょうか? ですから、私は多くの同修が長期にわたり、魔難と乗り越えがたい病業に陥ったのは、未だに師父の説かれた大法にしたがって、着実に修めておらず、未だに旧勢力の按配を否定しないことになると思います。

 魔難から抜け出すためには、着実に修めなければならない

 私は、法を正す修煉は終盤に差し掛かっており、私たちがなるべく早く自分の様々な人心と不足を取り除くには、絶えず真に修め、着実に修めてこそ、やっと師父の法を正す按配に追いつけると思います。私達の毎日の1分1秒にはすべて向上する要素があり、時には少し自分の考えに注意すれば、様々な良くない奇々怪々な、ひいては極めて汚い考えが浮かんでくることに気づきます。この時、考えを法の中に溶け込ませ、内に向けて探し、随時に正念で様々な執着と人心を取り除けば、それこそ、向上であり、昇華です。しかし、もし修煉の概念がなく、人心や執着、悪い考えを放任していれば、それは自ずと自分自身がそれらと一緒に落ちていくことに等しいのです。

 今、私にはよく分かっています。よく修めた一面は瞬時に隔離され、残ったものはよく修めていない部分であり、また続けて修めないといけません。最後に師父について本当に大圓満する時刻になるまで、私たちにはまだ取り除かれてない多くの人心があり、これらはいろんな場合に良くない作用を働き、私たちの修煉を瞬時に台無しにさせるかもしれません。ですから、私たちは緩めるわけには行きません。今思うと、以前の自分は常に良くやっていた、自分は素晴らしいなどという自慢な考えがあり、良く修めていない一面が法に同化することを妨げ、自分が本当に精進することを阻止していたことがわかりました。この世間的思想の中には、私たちが精進することを妨げるものがたくさんあります。各種の人心、各種のマイナスな思惟がたくさんあります。学法を堅持しているからこそ、それらを見分ける智慧を持つようになり、絶えず自分の考えを着実に修めるからこそ、それらによる障害を破ることができます。

 私はまた長い間、どこでもこのような同修がいることに気付いています。しきりに仕事ばかり行い、普段学法と煉功が少なく、発正念も非常に少ないのです。ほとんど内に向けて探す概念がなく、仕事をたくさんすることを精進とみなし、自分がたくさん代価を支払っていると思っています。自分を着実に修めておらず、仕事だけをし、師父の説かれた通り、「毎日頭を地につけて血が出るほど拝んでも、線香を束にして燃やしても、何の役にも立ちません。自分の心を着実に修めなければ何にもなりません」の状態です。着実に修めず、仕事だけをする、すると邪悪を鎮める能力が弱くなり、仕事をいくら多くやっても、人を救う実際の効果はあまり良くないかもしれません。
 もちろん、仕事をたくさんやる人は表に出て来ない人と比べれば、良さそうに見えますが、この考えは容易に自分を騙し、自分を心安らかにさせます。しかし同修には忘れていることがあり、それは、師父が私たちに要求されている三つのことがあるということです。つまり、学法と煉功を絶えずして修煉し、発正念し、迫害の真相を伝え、三つのことを同時にしっかりと行うことです。その中の一つだけ行うことは、師父の話を聞いてないことになるのではありませんか。着実に修めておらず、たくさんの人心と執着を修めていなければ、時に至ればどうなりますか。大圓滿のその日、裏門があるでしょうか。それほど重い人心を持っていては、どうやって飛べるでしょうか。修煉は少しの偽りも許しません。

 修煉には近道がなく、いかなる特殊な修煉者もいません。実際、同修の中で、口の達者な者は精進していないかもしれず、表した常人の能力がいくら強くても、心性が高いとは限りません。過去によく行い、精進したとしても、それがいま精進していることを意味しておらず、すべての修煉者は着実に修煉し続けるしかありません。自慢、自大の心が生まれ、自分が偉いと思えば、すぐ落ちてしまいます。謙虚な心を持ち、常に他人の意見を聞き入れ、常に自分の不足を見出すことこそ、精進している状態です。

 長期にわたり魔難と病業の状態に陥っている同修は、更にこのように自分に要求すべきです。以前どのようにやっていたとしても、目の前のことから始め、真、善、忍の基準に、いつでも、どこでも自分の思想と言動を量り、真に学法を重視し、学法を妨げるすべての障害を取り除こうとする確固たる信念を持ち、学法する時、いかなる求める心も抱かないで、近道を歩もうとするなどの現実を離れたすべての幻想を放棄しなければなりません。普段の生活、仕事の中、自分の考えを修めることを重んじ、タイムリーに正念を持って、様々な人心と執着を取り除かなければなりません。 法を実証し、真相を伝えることに心を込め、こうしてはじめて本当に精進できます。本当に精進している修煉者こそが、旧勢力のすべての按配を否定することができ、師父の按配された道を正しく歩むことができます!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/7/7/331018.html)
 
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