根本的な執着を探し出さないと、とても危険
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年5月9日】今日、学法の中で以下のことを悟りました。自分の以前をすべて放下し、新たにゼロからスタートし、どんな事をしていても真・善・忍を持って自分を律し、清浄(しょうじょう・清らかでけがれがないこと)を保ち、大法に符合しない一切を一掃すべきです。

 師父はこのようにおっしゃっています。「乾坤を再造して大穹を正し 重々たる障害を突破す 法を正すは旧い塵を洗い落とすにあらず 同化、更新して大洪に入る[1]

 以前の自分にはいくら良い部分があったとしても、保留すべきではありません。なぜなら、旧宇宙の基点はすべて「私」のためであり、法に正されて、法に同化すべきです。「すべては1からスタートすべき」で、以前の繰り返しではなく、「復元」(ふくげん・もとの位置・姿にもどすこと、もどること)でもありません。

 師父は「例えて言えば、瓶の中に汚いものを一杯入れて、蓋をしっかり閉めてから、水に投げ入れると、底まで沈んでしまいます。中の汚いものを出せば出した分だけ瓶が浮き上がってきます。全部出せば、完全に浮き上がってきます」[2]とおっしゃっています。

 もし、私は独りよがりで、自分が他人よりあるいはどの方面において、他人よりずいぶん優れていると思うなら、すでに自分の蓋をきつく締めて、汚いものを出したくないのではありませんか? 恥ずかしい話ですが、20年あまり修煉をしてきて、法を多く学んだ私は真に法を持って自分の言動や考えの一つ一つを律せず、真に自分を変えようとしませんでした。これはうわべの形式だけに留まり、真に、着実に修煉しなかったのではありませんか? 悲しい事に、私はまったくそれを意識しておらず、逆に自分が良く修めていると思い、潜在意識の中で他人の模範になろうとして、自分を実証して他人を指導してきました。今、師父に大変申し訳ないと思っています。師父は私たちと衆生のために多大な犠牲を払われ、時間を再三に延長され、多すぎるほどのものを弟子に下さいました。それにもかかわらず、意気地ない私は人心を持って、大法の中で仕事をごまかしてきました。

 今年、私は別の都市にやって来ました。最近、毎週に私と連絡を取り合う同修が不当に連行されていて、自分には厳重な問題が存すると感じました。私は自分が行う大法の仕事の量ばっかり気にして、協力してくれる同修の修煉状態を考慮にいれず、大法の仕事を中心に考えて、「法を学んで着実に修煉することは、大法の仕事をよく行う前提である」ことを見落としました。教訓は深刻です。

 しばらくの間、私はずっと自分の根本的な執着を探していて、絶えず自身の問題を発見し、随時に直してきました。一見、精進しているように見えます。学法や発正念煉功の際は主意識がはっきりしていて、睡眠時間が少なくても眠くならず、時々雑念が現れますがすぐにそれを排除することができます。大法の仕事も順調にこなしています。しかし、ここ数年、心を静めて学法することはできますが、以前ほど新しい法理に気づくことが少なくなって、師父や大法との間に何かに隔たれているように感じます。座禅の時も昔ほど心が静かではなく、足が硬くて、耳鳴りも近頃ひどくなって、左腕と左すねの皮膚に小さなしこりができて、かゆくてたまらない感覚が随分続いていました。初めは、刑務所にいた時、刑務所の役人におかずに薬を入れられたので、食後、首や両腕の皮膚に赤いしこりが一杯出てきて、手で掻いた後に腕一面に広がって、赤くて、痒くて、日差しに照らされた部分の皮膚はなおさらひどいのです。あれから4年が経った今でも、症状はまだ完全に消えていません。

 もう一つ言及すべきのは、最近の自分は明らかに自分の問題を認識しても、自己コントロールできないことです。例えば、同修の問題が見えたら、必ず、しかも鋭く指摘します。自分を抑えなくてはならないと思い、時々言いませんが、なぜか、同修と一緒にいるとどうしても口に出してしまい、しかも顕示心を持って、とても厳しく同修に当たってしまいます。例えば、同修の甲さんと乙さんも私と同じく、地方から来ています。彼女たちが学法や煉功、そして発正念の時も寝てしまうことを厳重な問題だと思い、「このような状態がどれくらい続いていましたか?」と問い詰め、「すでに数年になります」という答えを聞くと、「それでもこのような状態に慣れっこでいて、内に向けて心性の問題を探さないのか? 本当に恐ろしい!」と思い、彼女たちを「棒喝」すべきと思っていました。

 このような事に対して、同修は最初のころ何とか耐えていましたが、時間が経つにつれて、どんどん私から遠ざかっていきました。私は内心で微かに同修との隔たりを感じ、「彼女たちのためにやったことなのに、なぜだろうか? 私に感謝すべきでは? それこそが真の修煉ではないか? なぜ私から遠ざかるの?」と悩みました。その後、「私から離れることは彼女たちの損失だ」との一念が頭をよぎりました。しかし、すぐに「この考えでいいの?」と私は敏感に反応しました。思えば、この考えは異なる時間において度々現れてきましたが、ずっと気に留めませんでした。私は突然「この考えは間違っている! しかもとても危険だ」と認識しました。深く掘り下げていくうちに、私はびっくりしました。

 私は「自我」を重く見過ぎて、無意識のうちに自分を師父と大法の上に置きました。師父と大法に対して謙遜(けんそん・へりくだること。控え目なつつましい態度でふるまうこと)かつ恭しい(うやうやしい・ 相手を敬って、礼儀正しく振る舞うさま)心を持つどころか、とんでもない不敬を働きました。それでも己を知らず、法に則ていると思っていました。私はこの思想の出所をはっきりと見分けていなかったために、それにつられて、自分の主意識を見失いました。同修と一緒にいるとき、私は自分を他人の模範として高く掲げて他人を指導し、相手の法理に関する理解の如何にかかわらず、自分を認めさせます。認めてもらえない場合、潜在意識の中で同修に対して不満を抱き、外に向けて探し、愚痴を言い、同修を見くびって、甚だしきに至っては報復の心理さえ生じて、他人の問題を捉えて放さず、いつまでも気にかかって忘れられません。時には、表面上放下したように見えますが、内心では執着し続けていました。長くこの状態にいれば、心に魔が生じたのではありませんか?

 師父はこのようにおっしゃっています。「どんなことが現われてこようと、心性をしっかり制御しなければなりません。大法に従っているものだけが本当に正しいのです。功能といい、功を開くことといい、みなあなたが大法の中で修煉して得たものにほかなりません。もし大法を二の次にして、自分の神通力を最重要視し、あるいは悟りを開いた人は自分の認識こそ正しいと思い、極端な場合は、うぬぼれて自分が大法を超えているとさえ思ったりしたら、その時点で、あなたはすでに堕ち始め、危うくなり、だんだん駄目になっていきます。そうなった時は、修煉が無駄になるので、本当に厄介なことになります。下手をすると堕ちていき、修煉を台無しにしてしまいます」[2]

 私はある問題にずっと悩まされていました。それは、一人でいるときすごく精進しますが、同修と接すればすぐに妨害を受けてしまいます。甚だしきに至っては、同修が睡眠を貪れば私も眠くなり、同修が早朝に煉功したくなければ、私も朝の煉功時に起きられなくなります。今、その原因をある程度認識しました。それは、同修と一緒にいれば独りよがりになって他人を指導し、負けん気が強くて、自分が良く修めていることを顕示し、自分を実証していたことが魔に隙に乗じられたのです。

 ある同修は私が自我が膨張していると指摘しました。その後考えてみても、問題を見つけることができなかったので、重視しませんでした。

 正法が終わりに近づき、無数の衆生は救い済度されることを待っています。法をよく学び、自分をよく修め、多くの人を救うことこそが衆生の望みであり、師父の期待でもあります。今から、私はそれをはっきりと見分けて良くないものをきれいに排除し、自分を正して、真に自分の主意識によって自分を支配し、真に修める師父の弟子としてしっかりと努めていきたいです!!

 慈悲なる師父は、再び弟子に自分を取り戻す機会を下さいました。私は近頃の次元の限られた自分の認識と教訓を書き出してみましたので、いまだに根本的な執着が見つかっていない同修の参考となれば幸いです。適切でない部分があれば、同修のご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「乾坤の再造」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/4/15/345656.html)
 
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