明慧法会|党文化と自分自身の根本的な執着から抜け出す(三)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2013年1月15日】

 四、心性を高めて難関を乗り越える

 (1)母とのけんか

 仕事を辞めてから家にいる時間が多くなり、母と一緒にいる時間が多くなりました。ちょうどこの暇な期間を利用して、多く学法しようと母は言っていますが、私は再就職と将来の生計のことで頭がいっぱいになって、学法に集中できず、夜間の12時の発正念もほとんど起きられなくて、母に呼ばれたら私は口で答えて、引き続き寝ました。私は煉功を怠って、動功をする時に全身に力がなくて、しっかり立つことができず、静功をするとまた寝てしまいました。家で映画を見たりおやつを食べたりして、母に「良い習慣ではありません」と言われました。セールの時に買ってきたものに母は「セールでも要らないものを買わないほうが良いですよ」と言いました……。要するに、私が何をしても母は気に入らないようでした。内に向けて探しても、原因が探し出せませんでした。私はずっとこのように生活しているのですよ、学友や同僚たちよりずっと良いですよ。彼らは毎日ゲームをして、よく外食して、ブランド品に目がくらんで、私生活も不謹慎なので、ああいう欠点は私に一つもありませんよ。どうして母は私を理解してくれないのですか。ついに私は退職したことを後悔して、母にとても大きな不満を抱えるようになりました。退職したことを母のせいにし、今のどん底状態に陥ったのは、母が私に大法を学ばせたせいだと思って、母と大げんかをしました。

 『精進要旨二』「道」をめくって、「修煉とは実に難しいものです。天が崩れ、地が陥没し、邪悪が狂ったように迫害し、生死に関わるときであっても、依然、あなたの修煉の道を確固として歩み続けられるところに難しさがあります。人類社会のいかなる出来事も修煉の道を歩むことを阻むことはできないのです」が目に入りました。師父の言葉にとても感動して私は号泣しました。私は自分の感銘を形容することができませんでしたが、この話はしかし私にあまりに感動させたと感じて、10数年来、大法弟子が命の危険を冒して信仰を堅持して、誰もが外部からの誹謗、家族の不理解と咎め、邪悪による迫害に耐えています。古人でさえ真理のために勇敢に立ち向かうことができましたが、今の私は自分の利益が損されることで心が揺れて、意志が動揺しています。

 師父は『精進要旨』「法の中に溶け込む」で「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」とおっしゃいました。私は順調に大法の修煉に入ることができたのですが、かえって修煉を大切にしなくなって、本当に師父に申し訳ありません。自分は何でも放下したと思っていましたが、法を得てからの事を一件ずつ思い出してみると、実は自分はそこまでできていないことがはじめて分かりました。私にまだ苦に耐えたくない安逸心があって、将来に対する心配があって、人に低く見られたくないメンツがあって、まだ人間のものと根本的執着を放下していませんでした。自分がとても精進していると自覚していたのですが、それはただ学友や同僚と比べて得た結果で、大法の基準と要求までははるかに遠いのです。

 (2)着実に修煉する

 過去の不足を補うため、私は母と一緒に勤勉に学法して煉功をしました。私たちは生活レベルを低く抑えて、お腹いっぱいになれれば十分です。外出して真相を伝える時、旅費を節約するため、できるだけ車に乗らず、歩いて行きました。外で泊まらなければならない時、私たちは24時間営業のファーストフード店で少し食べて、そこに一晩座らせてもらいました。節約したお金は資料拠点の同修に使ってもらいました。あれは最も忘れ難い最も喜ばしい日々でした。私は多くの法理が分かって、自分の多くの不足を探し当てたからです。

 師父は『ヒューストン法会での説法』で「人が修煉の際にある程度苦を嘗めたり、苦痛に遭ったりするのは良いことだということをここまで話してきました。法輪大法を修煉するからには、気持ちよく修煉して、魔難がなくても功が上がり、あれこれのトラブルなどの妨害はあるべきではないと言う人がいます。修煉者は業を償わず、境地を高めなければ永遠に功は上がりません。またある人は、家族が修煉を許さず、修煉する条件を与えてくれず、甚だしきに至っては離婚の話まで出たと言いますが、これは本当だとは限りません。あなたにとって修煉の比重がどれだけ大きいか試しているのかもしれませんが、表面上は確かに激烈です。修煉は厳粛なものです。一つの関一つの難は決して冗談ではなく、修煉者として何かトラブルが起きたときには必ず原因があります。実は、誰かがあなたとトラブルを起こしているとき、それはみなあなたの向上を手伝っています。あなたは思想境地を高めると同時に、あなたは苦痛に耐える中で業を消しています。そして同時にあなたがこの法に対して確固たる信念を持っているかどうかを試しています。この法に対して確固たる信念を持っていなければ話にもなりません」とおっしゃいました。

 それを読んだ時、あの気功師である社長に対する不満も煙のように散って消えました。彼が面倒なことを作っていなければ、若者にとって命よりも重い虚栄心を、良い仕事と出世に対する追求を、裕福で楽しい生活に対して欲求を、私はどうやって放下できますか? その種々の執着からどうやって抜けられますか!? 師父は『ヒューストン法会での説法』で「あなたが名、利、情を放下できたのに、あなたが円満できなければ私もそれは不公平だと思います。人が名、利、情を放下できるということは、命を放下できることに等しいのです。人は何のために生きているのでしょうか? お金や、名誉、そして人の情のためではないでしょうか? これらを放下できれば、あなたはまだ人間でしょうか?(拍手) 人はこれらのために生きており、神にはこういうものがありません」とおっしゃいました。

 (3)共産党文化の害毒から抜け出す

 繰り返し『中国共産党についての九つの論評』と『党文化の解体』の2冊の本を読んだことで、自分の一部の行為と考え方が、実は自分も意識していない党文化のものだと、いっそう分かるようになりました。私たちのような若い世代は成長期に、中国の伝統文化を少量しか受け継いでいないため、自身の党文化の要素を解体することは、さほど容易なことではありません。自分の考え方が正しいと思う時でも、実は党文化の枠の中で物事を判断しているに過ぎません。

 師父は『二〇〇七年ニューヨーク法会での説法』で「改造された中国人は邪党に注ぎ込まれた世界観をもって、人類の是非、善悪を認識しているから、法と真理を認識することが本当に難しいのです。年寄りの方、年配の方は中共邪党の文化がまだ現れていないとき、古来の人類文化の教育と薫陶を受けたことがあるので、近代になって中共邪党のものが現れましたが、彼らには人間の道徳の最低基準がまだ残っているため、基本的な善悪を判断することができます。最も悲しいのは、現代の若者です。彼らは完全に中共邪党の現代意識を注ぎ込まれたのに、まだ自分が偉い、何でも見抜いていると思っており、中共邪党に目的をもって破壊された人間関係、価値観、倫理道徳の混乱現象を歴史上の人類本来の状態と人類の本能だと思い込んでいます。さらに、進化論の邪説が加わって、彼らは本当に自分自身をも動物と見なしており、これは邪党が目的をもってやったことだと知る由もありません。人々は人類が待っていることや人間になった本当の目的を忘れてしまいましたが、邪悪な悪党の邪霊には分かっています。そのため、それらは目的をもって人間を堕落させています。何者でもない、現代式の愚昧は、彼らが宇宙の真理を認識することを阻んでいます。ですから、この世代の人たちにとって、非常に恐ろしいことです」とおっしゃいました。

 師父は特に『洪吟三』の詩に共産党文化の毒害を書かれました。最初、詩で言われたのは中国の最も凶悪な人たちのことだと思ったのですが、それから実は、私たち中国本土に生まれて成長したすべての若者も、党文化から抜け出すことができず、毒害を受けていることもやっと分かりました。今の多くの若者は両親の説教に耳も傾けず、いわゆる「世代間のギャップ」とは実は現代社会の一種の変異した観念です。仁、義、礼、智、信の伝統美徳を持たない若者は、相手の意見に耳を傾けず、しかも自己中心で奢侈逸楽にふけります。それらの観念が根強くてずっと私の向上を妨げていましたが、10数年修煉して、今になって私はやっとそれを見抜くことができました。

 五、師を助けて法を正して、誓約を果たす

 修煉者にとって金銭や名利はみな体以外のもので、自分をきちんと修めて大法を実証することは最も重要なことです。輪廻の中で私たちは今日まで待って、今はすでに最後の最後にまで来ています。私にはまだできていない部分が多く、やらないといけないことがたくさんあります。明慧ネットの原稿募集の知らせを見た時、自分の修煉経過を書き出して、他の若い修煉者に参考を提供することは自分の使命だと分かりました。一緒に共産党文化の害毒を見分けて、更に勇猛精進することは私の願いです。

 毎日、私たちはみな、もっともっと多くの衆生を救いたくて、彼らに真相を知ってほしいです。私たち自身もまず真相を分かるようにする必要があります。私たちが誓約を立てて師父についてこの世に降りた時、どんなに苦しい境遇に遭っても恐れない決心を下しました。生々世々の輪廻の中で、私たちは赫々たる人生を送ったこともあり、巨大な苦難をも耐えてきており、今になって放下できないものは何もありません。師を助けて法を正して、誓約を果たすことは私たちの人生の意味と使命です。過去に良くできていなくても悔やむ必要はなくて、最後の瀬戸際に本当に精進できれば、神の道を歩む大法弟子と言えると思います。

 (完)

 (明慧ネット第9回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/11/10/264923.html)
 
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