文/中国の大法弟子
【明慧日本2017年10月9日】先日起きた事を通して、どのように恨む心を除去するかについて、私は新たに体得しました。同修の皆さんのご参考になれば幸甚です。
私はある物流会社に勤め、部署のサブリーダーをしています。先日、例会が行われた時、チームリーダーは私が担当する部分は良くできていない、要求通りに操作していないと私を責めました。私は「いずれも貨物は時間通りに配ったので、どこがよくできていないのか」と心の中で反発しました。もちろん、修煉者として表向きには忍を守りましたが、その後、不平不満はずっと心の中で沸き返り、数時間経っても収まりません。そこで、心が平静になれない原因を考えてみました。
責められて悔しかっただけでなく、チームリーダーを恨む心も生じました。「いずれも私は貨物を時間通りに配った。また、貨物が少ないときに確かに私は自分なりの手順で操作したが、貨物が多いときに私はあなたの要求通りに操作した! どうしてそのときの光景をあなたは目に入れず、私が要求通りにやっていない場面ばかりを見たのか」と恨む心が生じました。自分の仕事の進め方には問題がなく、チームリーダーに怒られる筋がないと思ったので、恨む心が生じたのです。私は自分の仕事の進め方がとてもよく、順調に貨物を配達できたと思い、チームリーダーのやり方は貨物が少ないときには全く必要がないと思っています。私の思ったことは、自我に固執することではありませんか。
私は自分の仕事の進め方の正しさだけを重視して、それに執着し、相手のために考えておらず、とうとう相手との間に対立が発生しました。自分には除去すべき執着があると私は気付きました。どのように除去するのか、私は師父の説法を思い出しました。「ある神がある方法を提示した時、彼らはそれをすぐに否定し、自分の方法を示し、自分の方法が最も良いと言うのではありません。彼らは他の神から出された方法の最終結果がどのようなものなのかをまず見るのです。道が異なり、一人一人の道も異なっており、生命が法から悟った理は皆それぞれ違っていますが、結果は同じかもしれません。ですから、神たちはまず結果を見るのです。到達する結果を見て、本当に達成したいところまで達成することができれば、それに同意します。神はこのように考えています。更に、足りない所があれば、無条件で黙々とそれを補い、圓満させます。神はこのようにして問題に対処しています」[1]
私のやり方で達した結果は、チームリーダーの方法で最終的に達する結果と同じなのか、と私は自分に聞きました。答えは「同じ」です。それならば、チームリーダーの要求に従えばよいではありませんか。自分のやり方に固執する必要は全くありません。自我に固執れば、仕事に対して良いことはなく、自分の心にも不満が生じて、チームリーダーをも怒らせました。私はすぐ自分のやり方を止めてチームリーダーの要求通りに操作して、心境もずいぶん明るくなりました。
恨む心には「作用点」が必要だと私は発見しました。修煉者が「名」に執着すれば、名が傷つけられるときに、きっと自分の名誉を損なう人を恨みます。修煉者が「利」に執着すれば、損を蒙るときに、きっと損をもたらす相手を恨みます。修煉者が「情」に執着すれば、肉親や友人に冷たくされるとき、自分の感情が報われていないと思い、肉親や友人を恨みます。修煉者が「自我」に執着すれば、自分の考えや観点、仕事のやり方などが他人に評価されないとき、同じように相手を恨むに違いありません。恨む心を除去するには、まず上記の執着を探し出す必要があると思います。その執着心を除去すれば、恨む心は自然に無くなりました。私がもし「無私無我」の境界に達すれば、ば、周囲の人との間に対立が発生しますか? 私が完全に相手の立場に立って考えるとき、心に恨みも不満もなく、私が何も求めず何にも執着しないとき、恨む心の「作用点」も無くなると思います。
また、私が恨んでいる相手はほかにいないかと考えました。答えは「います」。誰ですか、私の妻です。私は妻に対して多少不満を持っています。妻は私の母に対して親不孝といえるほどで、母を我が家から追い出したことがあります。そのため、未だに母は父と一緒に古い実家に住んでいます。その事以来、私は妻に対して以前ほど優しくなくなりました。つまり、妻に対して恨む心が生じました。その事から、自分の二つの「情」が傷つけられたと私は気付きました。一つは母に対する愛です。私はとても母を愛しているので、妻のやったことに私はずっと不満を持っています。もう一つは夫婦の情で、母に対してこれほど親不孝な嫁は、夫としての私の気持ちを考えたことがあるのか、と思っています。つまり、母のことを優しく扱ってほしいと妻に求める心があります。
妻のしたことはまた私の観念を傷つけました。親孝行の観念です。私の両親に対して親孝行をしない女は良い奥さんといえないと私は思うので、そこで心に不満が生じています。
自分の執着心が分かったので、後のことは簡単になりました。親孝行をしたいなら自分がきちんとすればよく、妻に強要する必要はありません。たとえ強要しても、人間の心を変えることができますか? 妻自身が変えたくないなら、私は諦めるしかなく、固執しても役に立ちません。そこで、妻に親孝行を強要したい観念を私はすんなり放下しました。
妻に親孝行をしてほしい、夫である私に対して優しい妻でいてほしい気持ちは、情ではないか、求める心ではないでしょうか? それは一種の私心にすぎません。妻と私の母、妻と私の間にどんな縁が存在しているのか、良縁か悪縁か、誰も分かりませんので、妻に親孝行と優しさを強要してはいけません。師父は大法弟子に「無私無我で、他人を先に、自分をあとにする」の境界に達するように要求されており、私は達したのでしょうか? 妻がどのように行うかに関わらず、私は影響を受けてはいけません。実は、私だけがしっかり親孝行をすれば、妻が何もしなくても、両親は安楽な生活を送れるので、妻に私と一緒に親孝行を強要する必要はありません。妻を恨む必要はなおさらありません。
妻を恨まなくなったとき、突然、夫婦の恩に思い付きました。私のために子供を産んで養育してくれた妻は、私にとって恩があるのだ、と初めて思い付きました。恩を受けたら恩返しをしないといけません。どのように返すのか、それは無条件に妻を大切にし優しく思いやることで、それは妻が私を優しく扱うかどうかに関係ありません。本当に執着を放下して求める心が無くなって、無私無我の境界に達してこそ、初めて純粋な善が生じます。私に求める心があるとき、相手のために考えることはできず、善も生じない、と私は体得しました。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法」