「自分の悪口を言ってはならない」 について 認識したこと
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2015年8月21日】最近、同修・Aさんが突然病業に苦しめられ、このことがすぐに同修の間に広まっていきました。このことについて、同修・Bさんが「同修の悪口を言ってはならない。同修の間でAさんの業や執着心について言い合ってはならない。彼女のいい面をもっと考え、彼女のために発正念しなければならない」と言いました。当事者のAさんも自分自身の悪口を言ってはならない、そうしなければ、旧勢力に隙を突かれて迫害されかねないことに気づいたそうです。このことにより、同修たちの間に隔たりができ、トラブルなども起きました。

 その後、「自分自身の悪口を言ってはならない」という言葉を多くの同修が口にするようになりました。そして、Aさんはこの話で、自分が他の病業に苦しんでいる同修の言動と認識を比較・評価されるのをよく耳にしました。このことで私はやっと気づきました。なぜ私は何度もこの話を聞かされるのか、この話は正しいのか? 師父はこのようなことをおっしゃったことがありますか? もし、この話が法になければ、同修がこのように何度も繰り返し言っていることは、大法にないものを大法に混ぜて修煉していることになるのではありませんか?

 病業の同修に対しては励ましが必要です。しかし、修煉者が他人に悪口を言われただけで気分が悪くなるようでは、その難関を乗り越えていないのではありませんか? 修煉は個人の願望であり、周りの同修は不満や非難する心を抱きながら、業に苦しめられている同修を指摘したり、他の人に内に向けて探すことを強制したり、これらは修煉者としてしてはならないことです。善意で同修を助け、その悩みを解くべきです。

 しかし、「自分自身の悪口を言ってはならない」ということは法に対する誤解です。自分自身の悪口を口にすれば、旧勢力に隙を突かれる、言わなければ迫害されないという考えは誤解です。旧勢力は口にするかどうか、また、それに気づくかどうかにかかわらず、執着心や隙があれば、それらは旧勢力に迫害される口実になってしまうのです。全体から見て、すべての同修にこのような隙があり、ある同修を迫害できるという口実を旧勢力に与えたとも言えます。旧勢力に言わせれば、「あの人が病気に苦しめられれば苦しめられるほど、お前たちはこの問題を重視し、精進するのではないか」ということなのです。

 修煉とは、自分自身の執着心や観念を取り除くことであると私は思います。内に向けて探すよう同修に注意するのはいいのですが、相手の執着心などに気づいた時、特に、難関を乗り越えて精進するのを妨害する要素などを見つけた時は、それをはっきり教えるだけでなく、同修がそれを取り除くのを助けることも必要であると私を思います。

 師父は「修煉者にとって内に向けて探すことは最も有効な方法です」[1] とおっしゃいました。旧勢力による妨害を全面的に否定するだけでなく、病に侵されて辛い思いをしている同修も含めて、皆で自分自身の内に向けて探し、良くないところを修めていくことで、より良く効果的に旧勢力による妨害や迫害を否定することができ、そして、精進して昇華し、向上するのではないでしょうか。

 我々の同修たちは何度もこのような迫害を受けながらも、今日まで歩んで来ることは容易なことではありませんでした。ある時はとても素晴らしく、神のように正々堂々と歩んだこともあります。今日の難関を乗り越えられず、悔しがったり、修煉や大法を疑ったりするなどして、修煉する自信を失うわけにはいきません。このような状況下で、同修たちの励ましや、かつて精進していたころの強固な正念を思い出し、そして、同修たちの正念を奮い立たせることなども必要になります。

 しかし、励まし終えたらお互い冷静になり、内に向けて探さなければなりません。悪い考えや観念、執着心などを徹底的に取り除き、そうしてやっと実質的な変化が起き、昇華し向上することができるのです。これこそ修煉者の素晴らしさです。この空間では見えませんが、他の空間ではそれは雄大ですさまじく、金色に光り輝いているのです。

 同修たちはそれぞれ自分たちがどのように内に向けて探し、どのように執着心を取り除いたか、交流し昇華し向上する状況下で、病業に苦しめられているAさんは自分が同修のCさん(AさんとCさんはかつて長期にわたって一緒に生活していました)を恨んでいることについて話しました。彼女を見ているだけで嫌になったそうです。しかし、今は恨んでいない(Cさんと別れました)などと言いました。実はこれがAさんの病業の原因の一つかもしれません。

 現世の医学的な面からにみれば、恨む心は有害物質であり、長い間恨み続けると、病気を引き起こしかねません。では、我々修煉者としてみれば、その恨む心は強い執着心ではないでしょうか? この執着心を見つけ、これを取り除くことで、精神的に楽になり、緊張もほぐれ、病業もなくなります。もし、自分の欠点を誰にも言われたくなく、指摘されたくなく、自分の苦しみを口にしたくなければ、自分の問題を見つけ出すこともできず、病業の苦難を乗り越えることもできません。時間が経つと、それだけの執着心が原因で修煉する自信を失い、修煉できなくなるかもしれません。勿体ないことではありませんか。

 以上は個人の体験であり、同修の皆さんと交流したいと思います。不適切なところがあれば、指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『各地での説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/2/27/305653.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2015/3/9/149262.html)
 
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