隠蔽した観念を打ち破り法理をもって再認識する
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 【明慧日本2017年1月17日】数日前、同じ市内に住む同修が家で集団学法した時に警察に不当に連行されました。このことを聞き、私はいつものように「同修は迫害を受ける為に連れ去られたのだ」と考え、警察を敵視して、焦って正念を発したり、心が酷く苦しくなったりすることはありませんでした。却って、気をしっかり持ち、感情に動かされませんでした。そして、直ちに、師の法を正す基点に立ち、妨害を否定し、同修の正念正行を加持して、法に則って、不足を補い、妨害を打ち破り、今回の迫害に加担したすべての警察官に真相を伝えて、彼らを救う行動をとりました。例え大法弟子が良く行えなかったとしても、邪悪に付け込まれて、衆生を駄目にすることを防がなければなりません。同修たちは迫害を受ける為に連れ去られたのではありません、人々を救うためなのです。なぜならば本当に迫害を受けているのは大法弟子の迫害に加担している人だからです、その人たちこそ最も哀れな生命なのです。師父は次のように説かれました。「大法弟子にとって、修煉する人にとって、敵がありません。皆さんがやるべきことは人を救うことだけであり、常人の手段、常人の理で人を懲らしめたり、人に判決を言い渡したりすることは皆さんがやるべきことではありません」[1]

 私は同修たちと交流して、全体で認識を高め、自分たちの観念を切り替え、決して、旧勢力が私たちの漏れを利用して衆生を破壊することは許してはなりません。衆生は皆、大法と縁を結ぶために地上に来たのであり、私たちは師父が望まれていることを円融すべきです。師父は「修煉の中で皆さんは良いことに出会っても、良くないことに遭っても、すべて良いことです。なぜならば、それは皆さんが修煉しているからこそ、現れたことだからです」[2]と仰いました。大法の法理をしっかり再認識してから再びすべての妨害を否定する正念を強めました、すると、同修を救援する活動の状態に良い変化が現れました。今回の試練を良いことに変え、今回の出来事を私達に出された試練だと看做し、それはすべて私たちが昇華するための機会であり、大切にすべきものです。

 2、3日が経ち、同修のAさん(不当に連行された同修の家族)が私に会いに来ました。彼女は連れ去られた家族同修の話や、自分の執着について話してくれました。彼女は情に動かされ、焦りが少し出ていると話しました。それを聞いて、私はAさん本人や、彼女が持っている執着に対する不満の気持ちは一切ありませんでした。平常心を保ち、話を最後まで聞きました。しかし、やはり我慢できず、今回の件についての自分の意見や、同修のBさんは私たちの認識とすれ違いがある事を喋りました。その時、Aさんとの会話は心性上の交流であることだとしか認識できず、Aさんに自分を修めることが肝心だと指摘しましたが、私の至らないところや、自分自身に向けて探さなければならないことに気づきませんでした。

 次の日Bさんが私に会いに来ました、私に「誰がAさんに何を言ったのかは知りませんが、Aさんの態度は180度変わって、私と衝突ばかりして、協力してくれなくなった」と愚痴を言いました。要するに、私がAさんに逆効果の言葉を話し、事態を急変させたのだとBさんは思っていました。Bさんはずっと文句を言いましたので、煩わしくなり、「話があるならはっきり言ってください」と言いました。直ぐに、今自分の言葉は法に符合してない発言だと気づきました。落ち着いて、平常心を取り戻してBさんに事の経緯を説明しました。すると、彼女も自分の考えを述べ始めました。私たちが話をしていくうちに「もうこの話をやめましょう、私達はここでAさんについて討論すること自体が間違っていました」と互いに悟り、Bさんは帰りました。

 同修が帰った後、法理をよく悟ると、私の目の前はぱっと明るくなりました。自分は同修の問題に執着せず、同修に対し寛容な態度で接することができ、外に向けて探すこともなく、自分はしっかり修煉が出来ていると思いましたが、今日の出来事から、自分の修煉は全然法の基準に達していない、法に符合しておらず何かがまだ残っていることが分かりました。それは自分の思惟の中で形成した同修に対する観念と認識なのです。それは、以前、外に向けて探していた時に、自分の考えに符合していなかった同修に対して形成した観念なのです。それはまだ頭の中に残っていました。この観念が深く潜んでいて、簡単に見つけることができませんでした。しかし、この観念は正さなければならないのです。

 また、「自分が同修に固定観念と認識を持つようになると、衆生を救い済度することに支障が生じる」という法理を悟りました。例えば、同修のことを思い出せば、これらの固定観念がまず動き出して、同修との間に隔たりを作るのです。正念をもって同修を応援すべき時に、これらの観念がまず現れて、私たちが内に向けて、自分の欠点を見つけ出し、真心をもって、純正な正念で同修を加持することを妨害するのです。例えば、同修の短所ばかりが頭に浮かび、同修にある問題点を探る等々。言い換えれば、以上のような行いは旧勢力の行為に近いものだと思います。たとえ同修の為に正念を発したとしても、黒々とした不純物が混じっている正念は、果たして、効果があるのでしょうか? 答えはノーです。なぜ、私達は同修を救援するために発した正念が効かないかの理由の一つが分かりました。

 同修が私に話したあることを思い出しました。同じ市内に住む同修は病業の状態が非常に深刻だったため、30数人の同修が交流、発正念を続けました。同じ市内に住むほかの同修も発正念に協力しましたが、結局挽回することができず、その同修は亡くなりました。この話をしてくれた同修はずっとこの件について疑問を持っていました、私も答えが見つかりませんでした。私達は一体どこが法に符合していないのか分かりませんでした。今までこの疑問はずっと心の中で残っていましたが、私は答えを見つけました。まさにこの私たちの観念が原因なのです。観念が私達を妨害していました。私達がその次元の法の基準に達することができず、昇華できず、根本的に旧勢力を全面的に否定することができていなかったのです。

 また、観念は旧勢力の按排の一部として、旧勢力に支配されていることが分かりました。即ち、私自身が持っている法に符合していないこれらの一層、一層の観念を取り除かなければなりません。同修に対する様々な考えを突破し、自我を放下してこそ初めて同修のことを自分の事と看做し、真に「相手のことは即ちあなたのことであり、あなたのことは即ち相手のことです」[3]の法理を体得することができるのです。

 自分の認識が昇華してから、すべての出来事はみな良いことだとわかりました。大法の中で法理を認識して、自分を修めることができれば、いわゆる「トラブル」も良いことに変わっていくのです。また、そのいわゆる「トラブル」自身は師父が私達のために築かれた階段のようなものであり、その階段を上り切れるかどうかは、私達の努力次第です。「トラブル」がなければ、どのようにして自分の問題に気付き、どのように自分を制御するのでしょうか。また、私は忍ぶ事の素晴らしさを知りました。試練に遭う時に、我慢することができず、外に向けて探し、愚痴や、不平不満を言い、口を修めることができず、同修と戦っていれば、同修との間に隔たりを作ってしまい、旧勢力に弱点を握られ、同修を救出することに支障をきたしてしまいます。

 以上は私の僅かな心得です。個人の次元に限りがあるため、適正でないところがあれば、同修のご叱正をお願いいたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『各地での説法七』「シカゴ市法会での説法」
 [2] 李洪志師父の経文:『精進要旨三』「シカゴ法会」
 [3] 李洪志師父の経文:『各地での説法二』「二〇〇二年ワシントンDC法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/11/23/337968.html)
 
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