若手大法弟子も使命をやり遂げなければならない
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文/米国カリフォルニア州の大法弟子

 明慧日本2018年6月6日】

 尊敬する師父、こんにちは。

 同修の皆さん、こんにちは。

 私の両親はそれぞれ10歳、11歳のときにアメリカに来て、私たち4人姉弟はサンフランシスコのベイエリアで生まれました。父は率先して法輪大法を修煉したので、母と私たち姉弟も自然に父について私は5歳のときから煉功を始めました。

 まだ幼い私は、修煉とは何か、あまり分かりませんでした。そのとき、ある同修の家で毎週末に子供弟子のための学法を行なっていました。同年齢のAさんとBさんは『轉法輪』を少し読めますが、私は読めませんでした。家では家族の間は英語を使い、中国語を話すのは祖母と広東語を交わす時だけでした。私は中国語を読めず、他の人が読んでいるのを聞いても分かりませんでした。

 ある日、父は英文の『轉法輪』を私にくれました。みんなが毎週読んでいる本の内容をやっと理解できる「ルート」ができて、私はとても嬉しかったのです。中国語の原文を理解したくて父に聞いているときに、大法に対する理解と悟りは人それぞれ異なることに気づきました。そのために、私は英文『轉法輪』と中国語『轉法輪』を交互に読んで、分からないところは父に聞きました。このような良好な修煉環境があったおかげで今の私がいます。

 中国伝統舞踊の道

 9歳のとき、中国の伝統文化に触れさせるため、同修である保護者たちは私たち女の子を中国舞踊の教室に通わせました。教室の廊下に貼ってある写真を見ると、子供たちは衣装をまとって楽しそうに踊っていました。初日の授業から開脚を教えられましたが、私はまったく開くことができませんでした。同級生のBさんは前に舞踊を勉強したことがあるので、とても楽に開脚できます。私が声も出ないほど痛いときに、彼女は開脚の姿勢を保ちながらなんと同級生のAさんと楽しく雑談もできました。

 次の週に、私は保護者たちに「舞踊教室に行きたくありません」と言いました。保護者たちは私に「苦しみに耐えることは良い事で、私たち修煉者は業を消して徳を積むので、これは良いチャンスですよ」と教えてくれました。私は『洪吟』の「その心志を苦しめる」[1]を暗記し覚えたのですが、今やっとその意味が理解できました。

 毎週の週末に私たちは教室で数時間の訓練を受けます。まずバーに足をかけてウオーミングアップして、それから逆立ち、開脚、足を上に延ばす、とんぼ返りなど。先生たちはみんな中国語を喋るので私は同級生たちに通訳を頼みます。その教室に2年通って、踊ることも修煉の道理に適い、見事に踊れるためには苦に耐えなければならず、失わなければ得られないと悟りました。

 舞踊を勉強する中で、私は自分の多くの執着心、例えば安逸心、嫉妬心、顕示心、歓喜心、闘争心などを発見しました。私はずっと同級生のAさんとBさんを羨み、彼女たちのように賢くて、先生が言った中国語を理解できて、上手に踊れるようになりたいと思っていました。彼女たちは私より業力が少ないので、舞踊においての成長も早いとずっと思っていたのですが、振り返って見ると、私は彼女たちのように努力していないのが原因です。毎週のレッスンが終わったら私はただ休みたいと思いますが、しかし彼女たちは家に帰っても練習をしていました。

 私たちの舞踊を生かすために、法輪大法のパレードが行われる時には、私たちに衣装をまとわせて中国舞踊を披露させます。今まで数えられないほどのパレードに参加し、通行人は私たちを囲んで微笑んで見てくれました。

 ある年、新唐人テレビ局主催の新年祝賀祭がサンフランシスコで行われ、その宣伝を手伝うため、父の手配の下で、私たちは多くの場所で中国舞踊を演じました。毎週の週末、私たちは街頭、ショッピングセンター、遊園地、図書館などで演じます。最初の頃は楽しくやっていましたが、だんだん疲れると感じるようになりました。毎回、父が運転する車に舞踊の道具、衣装、音響設備などと一緒に、ぎゅうぎゅう詰めで私たちも乗ります。毎回数時間踊りを披露して、終わったら片付けて家に帰るのは、とても疲れます。毎回の場所と環境はそれぞれ異なっており、地面がデコボコの時もあり、汚くて滑りやすい時もあり、怪我をしないために臨機応変に舞踊の動作を変えることもありました。演出の途中に雨が降っても、私たちは中止せずに踊り続ける時もありました。

 ある年の冬、私たちは飛行機に乗ってニューヨークまで行って出演しました。ニューヨークは少し雪が降ったのですが、私たちは露天の舞台で薄い服を着て舞踊を披露しました。またある年、クリスマス前日に私たちはサンフランシスコ市のある広場で8時間も舞踊を披露しました。それは私たちが連続して踊る時間が最も長い日で、途中でお腹が空いたらおやつを食べたりしました。その時の最も幼いダンサーは私の2歳の妹でした。長時間踊って疲れますが、疲れる表情をして踊ると逆効果になると分かっているので、正念をもって、最後まで楽しい心境を保つように私たちは頑張りました。

 私にとって、一番心性に触れる時は、修煉しない同級生たちが週末をリラックスして過ごすのを見た時です。私は毎週の週末も学法に行ったり真相を伝える活動に参加したりして、週末をバタバタ過ごし翌日には学校へ行かなければなりません。夏休みや冬休みの期間に、同級生たちは旅行に行きますが、私は毎日勉強と神韻の宣伝活動に参加します。自分がやっていることはとても偉大なことだと分かっていながら、同級生たちが楽しく過ごしている生活はやはり羨ましいのです。毎回楽をした時に、中国で迫害を受けている同修のことを思い出します。彼らは私の想像もつかない恐ろしい環境の中で真相を伝えているのに比べて、私は安全な国で正々堂々と真相を伝えることができるので、文句を言う筋合いはない、と私は自分に言い聞かせています。

 2007年、私が13歳の時、同級生のAさんとBさんと一緒に飛天芸術学校のダンサー募集に応募しました。その時、女子の身長に対する要求は160センチ以上で、私たち3人はまだ160センチになっていませんでしたが、以前中国舞踊の訓練を受けていたことを配慮して、面接官は3人を採用しました。

 それから飛天学校の寮に引っ越して、毎日、舞踊を練習し、集団煉功と集団学法をし、一般教養科目も勉強しました。修煉と舞踊がこんなに良く融合できる環境を、私は初めて体験できました。以前、舞踊の訓練は週末だけにやるので上達も遅いのですが、いまは、毎日朝から晩まで練習して、師父が自ら私たちの動作を直してくださるので、みんなも進歩が速いのです。先輩たちが訓練する時に、体がとても痛いのに諦めない姿勢を見て、私はよく感動の涙を流しました。師父は私の体を少しずつ浄化して下さることを切実に感じました。このような環境の中でみんなは互いに思いやって、互いに支え、「疲れる」、「辛い」、「諦める」は禁句でした。ここにいればいるほど今の生活こそ真実で、以前、常人の学校で過ごした日々は夢のように感じて、今は目が覚めたような気がします。

 初めてリハーサルに参加した時のことは、とても鮮明に記憶に残りました。先生たちは前列に座って、師父が真ん中に座られました。私はたった二つの演目に出ます。一つ目は笛を手にする仙女を演じる役で、無事に演じ終えました。最後の舞踊に、千手観音を演じる時に私は突然動作を忘れました。千手観音を演じるダンサーは身長の順に前から後ろへ並ぶので、一番背が低い私の位置は一番前になっています。始まる時に、師父が私の真向いに座っておられるのを見て、すぐ緊張しました。私は後ろのダンサーたちが見えないため、みんなが動作をやり出す時に私はまだ動いていません。その時のミスを、十年来、私はずっと忘れていません。

 飛天学校で多くのことを習い、中国語レベルも向上して、師父が先生たちに話された言葉を私は大半分かりました。もしそのまま残って訓練を受けて、いつか巡回公演に参加できればいいなと思いました。しかし2カ月後、ある先生がみんなにアイスを買い、それから私と同級生のBさんを呼び出して、後日お母さんが私たちを迎えに来る、Aさんは身長が足りているのでここに残ることができると、とても気を使う話し方で我々に告げました。Bさんは頷いて「分かりました」と言ったのですが、私は泣き出すのを我慢して力を入れてアイスの棒に噛みつきました。先生が離れた後、胸が張り裂けたように私の涙は止まらなくなりました。2週間後、Bさんのお母さんが私たちを迎えてに来て、皆さんと別れを告げました。今後ここに戻ってくる機会はないだろうと私は思いました。

 帰って来て数カ月の間、私はとても落ち込みました。どうして最終的に不合格になったのか、私はずっと納得がいきません。身長の問題だけではなく、千手観音を演じる時のミスのせいか、或いは修煉が良くできていないためなのかと推測ばかりしました。舞踊の道を選んで苦労して今日まで頑張ってきて、これこそ自分の修煉の道だと思ったのに、結局違いました。毎日泣きながら眠りに入りました。ある日『轉法輪』の言葉、「あなたが自分では何でもよくできると思っていても、運命の中にそれがありません。ところがある人は何をやっても駄目に見えていても、運命の中にそれがあるから、幹部になったのです」[2]を思い出して、私の気持ちは少し回復しました。

 いろいろ反省して、家族に対する情を私は放下していないことを発見しました。飛天学校にいる2カ月の間によく家族を思い、飛天学校を離れて家に帰る時に、また飛天学校の皆さんと別れを惜しみました。知らず知らずのうちに私は飛天学校の皆さんを新しい家族と思って、情に戸惑い飛天学校に行く目的を忘れていました。

 徐々に元気が出て、今は平穏に「三つのこと」をやっています。翌年、神韻芸術団がサンフランシスコで巡回公演する時、私はまた面接官に会いに行きましたが、私の身長が伸びると同時に飛天学校の要求も高くなっており、3年目の時、自分はもう飛天学校に及ばないと分かって諦めました。修煉者一人一人の道がそれぞれ異なるので、どうしても神韻芸術団に入りたいと執着してはいけません。全ての子供弟子が大きくなったら神韻芸術団に行けるとは限らず、私の使命はほかにあるかもしれません。

 若手の古い弟子として

 大学の時、私はデザイン科を選んで、早く卒業するために、私は父の提案に従って多くの単位を選んで、夏休みも授業に行きました。3年後、私は二つの学士号をもらって卒業しました。

 卒業して3日も経たないうちに、父はサンフランシスコ大紀元新聞社の社長に私の面接を申し込みました。私の予定では、卒業してからちょっと旅行をしたくて、仕事探しはその後にしたいと思っていました。まだ卒業式にも出席していないのに、父はどうしてこんなに急いでいるのかと愚痴りましたが、愚痴るのは、自分に安逸心があるからだと後になって分かりました。月曜日、大紀元新聞社に行ったら、急に中国語の環境に投げ込まれた感じでした。新聞と広告は中国語のもので、学法をする時は中国語で読み、メールは中国語で書き、会議に使う言語も中国語で、デザインに使用するソフトウェアも中国語バージョンを使わなければなりません。Google翻訳ツールは私の最も良い道具になりました。

 毎日の通勤に3時間かかるので、新聞社に着いてから学法と煉功をして、午後は広告デザインをして、夕方5時30分にあがって夜7時に家に着きます。夕食の後、また明日の新聞のために版面調整をしなければならないので、やっとベッドに入れるのはいつも夜中で、月曜日から金曜日まではそのようなリズムでした。翌月曜日の晩、ネットミーティングをする時に頭がよく痛いので、中国語の環境に漬かりすぎたせいかなと思ったのですが、後になって土日にリラックスして正念が弱まったせいだと分かりました。

 3カ月の研修が終わって、長く働いてほしいと社長に声をかけられましたが、私は迷いました。その時、父は逆に私に大紀元新聞社を離れて常人の会社を探せと言い出して、私はとても怒りました。両親の初めての子供として、ずっと父に教育実験の道具や実験対象として使われてきた気がして、私は父に逆らって社長に「ここで1年働かせてください」と言いました。今まで、サンフランシスコ大紀元新聞社に2年も勤め、まだ時々父は怒ったりしますが、最初の頃よりだいぶ和らぎました。

 師父は「大法弟子の大部分はこれらの天体にしたがって来たのであって、お互いに縁を結びましたが、一旦圓満成就して戻ったら、お互いに会おうと思っても、ほぼ不可能なことです。ですから、この縁を大事にすべきです。しかも、皆さんの縁はお互いに交叉しており、各生と各世に異なる縁を結びました。これは簡単にできることではありません。ですから、何かをする時に協力しあうべきです。それぞれの大法弟子のことは皆さんのことです。誰も些細な事でお互いの間に大きな溝が生じるようにしないでください。これはいけません。大事にすべきです」[3]と説かれました。

 法輪功の輔導員をしている父はいつも忙しくて、手伝いを求めてきた時、私はどうも断れません。新しい『論語』が出た時、家族全員が1冊ずつ持っていた『轉法輪』の古い「論語」のページを取り替えたのは私です。ある日、父は私たちが通う学法チーム全員の『轉法輪』を持ち帰って、「論語」のページの取り替えを私に頼みました。私は毎日こんなに忙しいのに、事前に声をかけてこないなんてと思って、とても腹が立ちました。しかしこれも修煉の一環だとすぐ思いました。これだけ多くの本の取り替え作業をやるために、毎日やっている新聞の版面調整をより効率良く完成しなければ時間が作れないため、私の動きと頭の回転はだいぶ速くなりました。また、こんなに貴重な本に作業をするので、必ず心を静めて悪い考えを一つでも持ってはいけないと分かっていました。

 最近の数年間、法会に参加する学習者の人数が多くなる一方で、事前の準備事項も多く増えました。2016年サンフランシスコ法会の時、父は1カ月前からパレード関連の準備をしました。我が家族は昼間にそれぞれ仕事や学校があって、准備は全て夜に行ないました。夜中に父はスピーカーのテストをするので、そのボリュームで私たちは寝られませんでした。その時、父は日本出張を控えており、定刻に帰って来てパレードに参加できる保証がなく、また他の同修に教える時間もないので、毎晩私と上の弟にスピーカーの操作を教えました。

 夜、私は版面調整を終えて階下の客間に行ったら、床に散らかったものを見るだけでも近付きたくありません。しかしこれらのラッパ、アンテナ、音楽はパレードの時に誰かが管理しなければならないので、私と弟は半分寝ている状態で操作の仕方を父に教わりました。幸い、父は日本から早めに帰って来たので、私と弟はそれほど大きい責任を担わずに済みました。パレードと法会の当日になると、家族全員が忙しくなり、多くの用事を済ませないといけません。

 2017年1月、神韻宣伝のために、ニューヨーク新唐人テレビ局の同修は私に中国舞踊の出演を依頼してきました。場所はアリゾナ州のフェニックス市です。去年、そこのマネージャーが私のリボンの舞をとても気に入ったので、今年もぜひ来てほしいと言っているらしいのです。私は長い間踊っておらず、目下、練習の時間も作れないため、その同修にすぐに返事をしませんでした。

 地元サンフランシスコ市に神韻公演をちょうど上演しているため、私は公演現場の警備の仕事に呼ばれました。劇場に向かう途中に道路上の穴を踏んで、足首を捻挫しました。とっさに考えたのは、私はいつからこんなに弱くなったのか、ということでした。舞踊の練習で数え切れないほど転んだことがありますが、こんなにひどく捻挫したことはありません。それでも痛みに耐えて、私はしっかり警備の仕事をしました。

 家に着いた後、足を捻挫したので、ちょうど2週間後のフェニックス市での舞踊の披露を断る理由になる、と思いました。しかしその考えは間違っているとすぐに分かりました。2週間後の出演はフェニックス市で神韻を宣伝するためのもので、今年の神韻巡回公演はまだ終わっていないため、気を緩めてはいけません。そこで、私は週末と夜の時間を使って舞踊の練習をしました。

 出演の日に私たちは朝早く出発して、夜遅く家に帰りました。ニューヨークからも何人かの同修が応援に来ました。3月、神韻公演はフェニックス市で行われ、チケットは2月の時にもう完売したそうです。私たちの舞踊披露はチケットの完売に少し貢献できたかもしれず、一人一人の努力と協力はとても重要だと私は悟りました。

 この18年間の修煉の道はとても長くて、時がとても速く過ぎたと感じました。多くの子供弟子は私と同じように幼い頃から修煉を始めて、すでに若手のうちでは古い弟子になっています。より多くの若手弟子が表に出て、大法弟子としての使命を遂げるために精力的に頑張ってほしいのです。難しいと思う時に多く学法をして、多く煉功をしましょう。毎回困難に遭う時に、私は『洪吟』の「その心志を苦しめる」を暗唱します。

 圓満となって佛果を得る
 苦を嘗めるをもって楽とす
 身を労するを苦と算せず
 心を修するは最も過ぎ難し
 関という関は全て闖えるべし
 いたる処すべて是れ魔
 百の苦一斉に降る
 其の如何に活くかを看る
 世上の苦に堪え得れば
 世を出ずれば是れ佛陀

 足りないところは、皆さんのご叱正を仰ぎたいと思います。

 師父に感謝します、同修の皆さんに感謝します。

 (2017年ニューヨーク法会の発表原稿)

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「その心志を苦しめる」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法三』「大ニューヨーク地区法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/5/18/348330.html)
 
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