神韻を宣伝する中で人心を放下する
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文╱イギリスの大法弟子

 【明慧日本2017年4月24日】

 一、人心を放下し 家庭環境を変える

 2007年に海外に来てから最初の数年間、大法の仕事に参加させないよう、夫は私を殴り罵りました。怖くなった私は大法を実証することに対し、やる気はあっても実力が伴わず、家庭の難に大いに苦しめられました。あの頃、夫に出張してほしい、そうすれば思い切って大法のことをやれるから、といつも期待し、毎回大法の仕事に参加する時、どう家族に説明すればいいか心の中で必死に考え、時には、参加する2日前になってもまだチャンスが見つからず、心の中は悶々とし本当に苦痛でした。

 神韻の宣伝活動に参加した1年目の時、私は毎週日曜日にしか行けず、帰って来ても、夫はいつも顔を曇らせていました。そこで、毎回帰宅する途中に、「私は最も正しいことをやっているのだから、何も恐れることはない、恐くない」と自分を励ましました。一度、ある同修は他の同修の前で、とても厳しい口調で「来る回数が少なすぎます」と私を責めました。そして、「店を閉めればいいじゃないですか。自分の店でしょう。自分で決められることでしょう」と言いました。私はとても怒って彼女と口論し、「私の事情をまったく考えていない、道理に合っていない」と思いました。しかし、落ち着いて考えれば、やはり自分が修めなければならないところがある、と開き直りました。同修の言葉は確かに耳障りではありますが、しかし、参加する回数が少ないのは事実ですし、それに、利益の心があることも認めなければなりません。なぜなら、自分の店の商売は繁盛しているとは言えず、なのに、いつも店を閉めて出かけるのは悪く、さらにここに来るにはけっこう交通費がかかると思ったからです。

 利益の心を放下し、必ず突破しようと思い、週2回参加することに決めました。最初は家族に知られないようにしました。毎回、夫が出かけると私もすぐに家を出て、彼が家に帰って来る前に先に家に帰るようにし、彼との衝突を避けました。最初はうまく行きましたが、しかし、ある日、同修と一緒にチラシを配り、日が暮れてもまだもう少し残っていたため、同修は最後まで全部やろうと言いました。私はとても焦りましが、しかし、帰りたいとも言えず仕方なく無理して、「今日は覚悟を決めて、全部やり終わってから帰ろう」と腹をくくりました。家に帰ると、夫は「どこに行っていたのか?」と聞かれ、私は小さな声で「チラシ配りに行きました」と正直に答えました。夫は意外にも何も言わず気にしていない様子でした。

 その日から、週2回出るようになりました。毎回、夫は浮かない顔で不機嫌でしたが、しかし、私は動じないよう、怒らないようにと自分に言い聞かせました。一方、家事をできるだけうまく済ませ、チラシ配りの日は夜7時には帰れるようにし、帰ってからすぐ食事の支度に着手しました。時には、家で暇にしているのに、何もしないで私の帰りを待っている夫を見て、不満な気持ちも湧いて来ましたが、その後、心性が高まるとともに心の容量が大きくなり、師父は「苦を嘗めるをもって楽とす」[1]とおっしゃっていましたから、食事を作るのも辛いことではないと気持ちを改め、それ以後、私は、いつも大法弟子の歌を口ずさみながら食事を作り、とても楽しくなりました。

 その後、週に3回出かけるようにしました。それに慣れてきた夫は、ある日、私が出かけなかったとき、「今日はどうして行かないのか?」と逆に聞きました。

 この数年、家族との摩擦の中で内に向けて探すことを通して、多くの人心、特に情や怨恨心、闘争心などを修めました。そして、以前のようにいつも 「大法のことを最優先に」を口実に、家族の気持ちを考えず、自分の人心を隠すようなことをしなくなり、今、できるだけ彼らの立場に立って物事を考え彼らを思いやるようにしているうちに家庭環境も変わり、私は自由に大法を実証する活動に参加できるようになりました。

 二、自我を放下する

 神韻の宣伝活動に参加することは、とても神聖なことで楽しいことです。ここ数年、同修との協力を通して自分の多くの人心がさらけ出され、同修達の優れたところ、同修との差を直視することが出来ました。それによって、私はより一層精進するようになりたくさんの収穫を得ました。

 ある時、同修と一緒に車でチラシ配りに行きました。車の中で、2人の同修はずっと車やら家やら、常人のことを喋っていました。私はせっかく集まったのになぜ交流しないで、役に立たない雑談ばかりするのだろうかと思いとても反感を覚えました。それからの2日間はずっと私達3人が組んでおり、その中の1人は私のことをよくからかいました。「今回は本当に残念だ。どうして彼女たちと組んだのか」とネガティブな考えが絶えず私の頭に浮かびました。

 口から言葉は出てきませんでしたが、心の中で不満が渦を巻いていました。師父は私の人心をはっきりと見られ、同修の口を借りて私に指摘して下さいました。夜、そのうちの1人の同修と神韻のチラシを取りに行く途中に、彼女は進んで自らの修煉の話をしてくれました。「神韻の宣伝活動に参加するのが大好きで、同修達と一緒にいる時間がとても楽しく、すべての同修をとても親しく感じているのよ」と言いました。それを聞いた私はとても驚きました。「自分は一部の同修に対しては親しく感じても、一部の同修にとても反感を覚えていました。それはなぜなのか、それは同修との差ではないか」と恥ずかしく思いました。

 彼女はさらに自分の修煉の話をし、同修に対するマイナス思考をいかに取り除いたかについて話をしてくれました。彼女の話では自ら心の容量を広げ相手を思いやって、相手の立場にたって物事を考えれば、相手のたくさんの優れたところが自然に見えるようになり、マイナス思考も次第に少なくなるとのことでした。私の心はパッと明るく開けました。その後の修煉の中でいつも同修のこの話を思い出し、いつも相手のよいところを見るようにし、包容力を持つように努力しました。

 最初に神韻の宣伝をした頃、協調人のやり方や考え方によく不満を感じていました。しかし、心性の向上に従って、それは自分の人心によるものか、あるいは自分の観念に一致しておらず、自我を放下していないから招いたものだと分かりました。やはり自分の修煉に力を入れなければならないと思いました。その結果、マイナス思考が少なくなり愚痴や不満も少なくなりました。

 ある日、同修が自我を放下し、無条件で強調人に協力する一幕を見ました。車を運転する同修のAさんは私達を送ってくれた時、「皆さんを送ったらすぐに家に戻らなければならないのよ(2時間かかる)。家にはたくさんの家事や洗濯ものが私を待っているから」と言いました。私達が到着したのはすでに夜の6時頃で、彼女は配布しきれなかった神韻のチラシを下ろし、家に帰ろうとした時、協調人からの電話が入りました。私は側に立っていて、彼らの会話をはっきりと聞きました。協調人は彼女に次の場所から10箱の神韻チラシを取って来てほしいと頼みました。Aさんは「いつですか」と聞くと、協調人は「今すぐです」と言いました。すると、Aさんは穏やかに「分かりました。すぐ行ってきます」と答えました。私はとても感動しました。「もし私なら、ここまでできるだろうか。このように無条件に協力することができるだろうか」と自問しました。

 その一幕は今でも脳裏に深く焼き付いています。それから、何かの問題に遭った時、いつも「自我を放下しよう、Aさんのようにできるだけ協力し、不平不満を言わないようにしよう」と自分を励ましました。もちろん、同修のやり方にほんとに行き届かない所がある場合、善意を持って提案しても構いません。しかし、どんなときでも相手のことや全体のことをを考え、協力しあい補うようにしなければならないと思いました!!

 以上は少しの体得です。適当でないところは同修達の慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「その心志を苦しめる」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/4/12/345526.html)
 
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