協調の過程で着実に自分を修める
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文/豪州の大法弟子

 

 【明慧日本2016年11月21日】

 師父、こんにちは。

 同修のみなさん、こんにちは。

 ここで近年の修煉体験を分かち合いたいと思います。本来、今回の法会に向けて、交流文章を書くか否か、ずっと躊躇していました。なぜなら、この間自分の修煉状態が良くなく、多くの心性の試練も乗り越えられず、書く内容がなく、たとえ書いてもプラスの作用を果たせないと思っていたからです。先月、シドニーで数回、小型の交流会が開催されました。交流会で同修の発言を聞き、心を打たれました。同修らが一人一人自分の不足と隠れている執着を素直に交流し、自分を守ろうとしない同修の話す言葉に心を打たれ、発言した同修が真に修め、善に向かおうとする心を感じ取りました。私が交流したくないというのも、一つの私心で面子を恐れる心ではないでしょうか? 自分のイメージを守るために、自分の執着心を話してしまったら、他の同修に批判されることを心配していました。一部の心性の関はまだ完全に乗り越えておらず、完全に突破する方法がまだ見つかっていない状況ですが、この修煉過程について交流することは自分の不足を見出し、速く向上できると思いました。

 一、協調人の責任と容量

 師父は近年、説法の中で、何回も協調人の責任は重大であるとおっしゃいました。毎回その言葉を耳にすると心が震えました。また、自分がこのような重責を負い、師父の要求に応えられるものだろうかと心配しました。

 師父は説法の中で「皆さんに教えますが、1人とでも協調できていなければ、責任者、プロジェクトの責任者として、それは修煉に漏れがあるということで、やり直す必要があります。やり直すことができなければ漏れがあるということで、円満成就のときに問題があります。信じないのですか? 私はいつもお互いに協力し合うことを強調してきました」[1]

 過去数カ月の間、異なるプロジェクトと環境の中で、トラブルが突然大きくなったような気がしました。自分もどういうふうに乗り越えてきたか分からない状態です。時には、逃げたい、きっぱり協調人をやめたい、自分の能力に合う真相を伝える仕事をやれば、少しは負担が軽くなると思っていました。しかし、落ち着いて考えてみると、法理に則っていないとわかりました。辞退することはすなわち、承諾を破棄することではないでしょうか。自分の承諾に背くことではないでしょうか。しかし、引き続きやるにしても、どのように突破すればよいかわからず、心性の摩擦に遭い、しばらくの間、自分の限界を超え、完全に乗り越えることができませんでした。その後、あまり多くのことに関わらないようにして、自分にできることをしながら、自分をしっかり修めればよいのではないか。関わる仕事が少なければ、他の同修とのトラブルも少なく、煩わしいこともないのではないかと思ったりもしました。最近、同修が何回かの交流会で党文化を取り除くことについて話すのを聞きました。党文化の現れは多様で、その中の一つの現れが「いい加減にすること」です。私はやっと、自分の消極的な心理状態とやり方が、党文化の一つの現れではないかと意識できました。

 以前トラブルは表に現れず、ずっと自分の修煉状態がまだよいと感じていました。修煉の中で、名・利・情に関連のあるたくさんの執着を取り除きました。トラブルの激化につれて、自分の態度が消極的になり、やっとそもそも自分の修煉はそれほどしっかりしたものではなく、まだ多くの執着心が隠れていることに気づきました。

 まず、自惚(うぬぼ)れることと褒め言葉を聞きたがることでした。自分と異なる意見を聞きたがらず、聞くことができず、特に激しい言葉の批判と意見はなおさらでした。私は修煉する前、幼いときから、性格が比較的内向的で、すぐに悲観し卑屈になりました。幼い頃から大きくなるまで、学校や勤務先でずっと優等生でした。内心では人に認めてもらい、称えてもらいたく、人に否定され、批判されることを恐れていました。修煉してから、表面的に性格が随分明るくなりましたが、最近トラブルの中でこれらの執着が、完全に取り除かれていないことを認識しました。同修が私の決定、或いはやり方を認めない時、私は相手とすぐに争いやすく、たとえ争わなくても居心地が悪くなり、再び交流をしたくありませんでした。

 その次は嫉妬心です。誰かがほかの同修の方法や、仕事が比較的素晴らしいと言うと、心のバランスが取れませんでした。どうして、自分のやった仕事と努力が認められないのでしょうか。実際、深く掘り出してみると、自分の能力と結果が否定されることを恐れて、自尊心と面子の心が耐えられなくなるからです。

 昨年来、私は一部の協調人との間に激しい争いが発生し、溝(みぞ)ができてしまいました。特に、一部の古い同修は私を直接指摘しました。現在一部の古い同修と能力のある同修は、佛学会の組織するプロジェクトと活動に参加したがりません。なぜなら、彼らは私の品格とやり方を認めず、私に全体を協調する能力がなく、ただ一部の同修だけと協調していると指摘しました。この一連の突如やってきたトラブルと非難は、私に非常に大きな打撃を与えました。私は辛い思いをさせられ、気落ちしました。どうして、私はこれほどたくさんの代価を払い、これほど苦労しながら仕事をやっているのに、こんなふうにしか私を見ないのでしょうか。どうして、そもそもよく協力できていた同修との間に、現在このような溝ができたのでしょうか。どうして、私の辛さと支払った代価を理解してくれる人がいないのでしょうか。

 この一連の打撃は私のさらに多くの執着心を暴露しました。人に尊敬され、認めてもらいたい心、闘争心、および安逸の心などが含まれています。私は消極的な態度でトラブルを避け、自分が再び傷つけられないように自分を保護しようと思いました。また、過去のようにそれほど心を込めて、すべてのプロジェクトをすることができなくなり、安逸の心と惰性を助長しました。私はだんだん毎朝起きて学法し、煉功することを保証できなくなり、たまにはネット上でビデオを見ながら、これは自分のストレスを軽減するため、リラックスするためだという理由をつけました。また、食事をしながら、ネットサーフィンをしても、あまり時間を無駄にしていないと自分を慰めました。実は、常人のビデオの中の内容が時々浮かんできて、自分が学法、煉功し、発正念をすることに影響し、以前のように、それほど純粋な心で、集中することができませんでした。

 このような緩みと消極性により、私の修煉状態も緩んでしまい、人を救う心もそれほど強くなくなり、プロジェクトの仕事にそれほど心を尽くすことができず、他の同修に対する慈悲の心と包容の心もはるかに足りず、さらにトラブルが発生し易くなりました。

 昨年から今年にかけて、私のまわりのよく知っている何人かの協調人が突然厳しい病業に邪魔されています。私にとってはほかでもなく、一つの棒喝であり、再び修煉の厳粛さを深く感じ、自分の修煉と他の同修との協調をいかに取るかを改めて考えさせられました。私は病業の中にいる同修を訪問し、彼らと一緒に交流し、発正念し、彼らが病業を乗り越えられるよう希望しました。これらの同修が旧勢力に迫害され、魔難に陥って毎日やつれていくのをみて驚き、心が痛みました。かつて一緒にたくさんの大法の仕事を完成させた同修がこれほど虚弱になっているのをみて、私は自分に問いかけました。私は彼らよりよく修煉できているのか。彼らはどうしてこのような病魔に遭っているのか。あれほどたくさんの仕事をしたのに、真に修煉とは何か、いかに修めるかを知っているのか。人間の情熱から仕事をしっかり行うことを精進して修煉していると思っているのではないかなど、法の基準は私達がどのくらい大法の仕事をしたかにより変わるものでしょうか。法が人間界を正す時、私たちは法の基準を満たし、天国に戻れるほど純粋になれるのでしょうか。

 私はこの間、他の同修とのトラブルについて振り返ってみました。過去において、私はずっと同修とわりとよく協力できて、トラブルも少なかったのです。それは自我に対する執着がないわけではなく、当時まだ協調人ではなく、他人に協力することはやりやすく、私の執着はまだそれほど激しく暴露されていなかったのです。しかし、協調人になってからは、師父のご加持と大多数の同修の協力の下、ずっとトラブルはそれほど大きくなく、仕事もわりと順調に進んでいました。しかし、この過程において、自我に対する執着が助長され、特に具体的な仕事をする際、ある程度進展があると、さらに自我を実証し、自惚れる心が生じやすく、無意識にプロジェクトの進展を自分の努力と能力によるものと思いがちになり「修は己にありて、功は師にあり」[2]の法理を忘れ、すべての成功は根本的に師父のご加持と大法の威徳によるものであることを忘れてしまいました。

 しかも、後になって、私が他の同修に協力する際、以前のように無条件で他人に協力することができませんでした。特に他の同修の考え方が自分と不一致の際はさらに気に入らず、あなたが協調人の私に協力すべきなのに、いまなぜ協調人があなたに協力することに変わったのか。特に、具体的なやり方が私の法に対する理解と合致しないときや、その効果が理想的でない時、さらにその関を乗り越え難く、また法をもって、心の中の執着を覆い隠しました。自分は法のために責任を負わなければならず、全体のため、衆生を救い済度するため責任を負わなければならないと感じ、常に内に向けて修めること、自分の執着と不足を探すことを忘れていました。

 最近、少しずつ分かってきました。たとえ、以前のやり方と悟りが正しかったとしても、永遠にその状態と次元に留まるわけにはいきません。なぜなら、修煉はほかでもなく、絶えず次元を向上させなければならず、法の要求もますます高くなるため、自分の次元での悟りとプロジェクトでの成果に執着して、放さないようではいけないからです。他の同修のやり方が私の考え方に符合するか否かは重要ではありません。例えば、とても愚かな方法、或いは最もすばらしい方法に見えるかどうかが重要ではなく、その過程で間違いがあったり、回り道をしてもかまわないのです。なぜなら、それはほかでもなく、同修が自分で悟り、自分の法を実証する路を歩んでいるからです。

 実際、同修と協調人はみな自分の法を実証する路を歩んでおり、必ず自分の路を歩み、自分の果位と威徳を築かなければなりません。この過程において、私は協調人として、誰かの代わりになったり、1人ですべてをやってはなりません。すべての同修の路はみな師父に按排され、守られています。私が常に同修が正しい道を歩めないのではないかと心配することは、師父と大法に対して信じることが足りない現れです。実際、協調人は最もしっかり修煉できている人でも、最も賢い人でもありません。だからこそ、同修が異なる方法を提言する時、なるべくそれを受け入れ、励ましあうべきで、すぐ否定したり、或いは自分が最高と思う方法をむりやり人に押し付けたりしてもいけません。自分の考え通り行うことを望むようなやり方は旧勢力が自分の按排に執着することと何ら変わりありません。

 私もなぜ一部の古い同修と能力のある同修が現在のプロジェクトに参加したがらないかを認識できました。多分、私が自分の理解とやり方で、真相を伝えるプロジェクトの発展とやり方に制限をかけたため、一部の同修が能力と積極性をよく発揮することができなくなった可能性があります。協調人として、私はいかに全体のため、人を救うことに責任を負い、同時に心を開いて、更に多くの同修が彼らの能力と積極性を発揮し、人を救い、法を実証することを更によく行うかを励まし、制限をかけないことが、協調人として、私にとって非常に重要な課題となっており、このことを良く行いたいと思っています。

 二、神韻プロジェクトの中で、師父と大法を信じることについての試練

 今年、神韻の宣伝をはじめた当初、私は比較的やりやすいと思っていました。同修と協調人はますます成熟していて、各種の宣伝方法とグループも成熟しつつあり、同修全体もますます協力できるようになってきました。昨年、神韻は比較的順調に行われ、私は今年の神韻のチケット販売はあまり問題にならないと思っていました。そして、昨年の販売の進捗で、宣伝と販売計画を立てました。それを基礎にさらに宣伝に力を入れ、同時に主流社会に対する宣伝にも力を入れる予定でした。しかし、今年の公演チケット販売がはじまって数カ月後、販売速度は非常に遅くなりました。昨年と比較すると半分くらいまで落ちていました。以前効果のあった宣伝方法を採用しても、大きな改善が見られませんでした。同修らもみな疲れてしまい、焦ることもできず、交流時に発言する人も少なく、まるで何かに抑制されているかのようでした。私は心配しはじめ、人に文句を言いたい心が生じました。クリスマスの前、ショッピングモールでの販売結果は場所代をカバーできず、私はさらに不平をこぼしました。ショッピングモールでのチケット販売の責任者に、よく反省して、状況をまとめるべきだとアドバイスしました。それは協調人がモールの場所の選び方がよくできていない、販売担当者の按排が理想的でない、クリスマスの前の場所代が高い時期にモールでチケット販売をすべきではなかったと非難したことになります。他の同修は却って私達が今年集中して、主流社会を突破することができず、方向が正しくなかったと思い、協調人と同修の間の雰囲気は緊張してきました。私はもしかしてまだ時期が早いし、クリスマスが過ぎたら、状況が良くなるかもしれないと自分を慰めました。新年に入って、チケット販売速度は少し速くなりましたが、昨年と比べるとやはり結構遅れていました。

 クリスマスの前後、他所の同修もやってきて、交流に参加し、神韻特別号でスポンサーを探した経験を交流しました。それを聞いて、私は大いに啓発されました。特に、他所の数人の同修が毎週数日間もっぱら神韻の仕事をした経験を聞き、私はこの方面を十分重視していなかったこと、主流社会担当のグループと関連する協調人に対するサポートと自らの参加も足りなかったことを認識しました。私ともう1人の協調人は、市内でメディアグループのオフィスを借りることを決め、自ら動きはじめました。毎週2日オフィスに行き、集中して一緒に神韻の宣伝をやりました。

 参加した同修はそれほど多くなかったのですが、たくさんの宣伝情報とフィードバックを入手し、随時に交流し、実施することができ、メディアのスポンサー探しの方面で突破が見え始めました。1月から2月までいくつかの大きな広告看板と相当な数量のバスの広告を格安で交渉することができました。中には二つの無料・大型広告看板も含まれていました。相当な広告費用を節約することができ、室外での宣伝の力も大きくなりました。

 1カ月後、チケット販売速度は加速しました。しかし、時間が迫ってきて、公演まであと3週間しか残っていなかったのですが、チケットは半分を少し超えた分しか、売れなかったのです。この肝心な時、同修らは緊急会議を開き、交流しました。他所の宣伝経験を振り返ると同時に更に法に基づいて、神韻の人を救う重要性を深く理解でき、すべての同修はみな努力して1枚でも多くのチケットを販売しようとしました。公演開始前後の1、2週間、法を正す勢いが私とすべての同修を前へと押し進めており、私達がどのくらい販売したか、私達個人が何をしたかが重要ではなく、佛、道、神が神韻のために、路を開いてくれたと思いました。残りのチケットは知らない内に完売されていました。公演の最後の日には1枚のチケットを購入することも困難な状況に至りましたが、私はあまり喜ぶこともなく、ただ師父に対する感謝の気持ちでいっぱいでした。

 この1年の宣伝とチケット販売の過程を振り返ってみると、実際すべて按排されていました。残されたのは、ただ私達が実際の仕事に手を着け、口を開くことでした。緊急で不利な状況はただ私が協調人として、また同修全体が、最も困難に見える中、依然として、師父と大法を信じ、確固たる信念で歩むかどうかということでした。現在、2017年の神韻宣伝はすでに始まりました。今後、神韻の宣伝とそのほかの師を手伝って、法を実証するプロジェクトの中で、私は100%師父と大法を信じ、正念を持って、より良く行い、真に法を実証し、多くの衆生を救い、師父の期待に背かず、弟子と衆生のために支払ってくださった師父の巨大な代価に背かないように、精一杯できることをやりたいと思っています。

 以上はこの1年間の修煉体験です。不適切なところについては、同修らの慈悲なるご指摘をお願いします。最後に師父の『洪吟』の中の詩「泰山に登る」をもって、同修らと励まし合いたいと思います。

 

 泰山に登る

 

 よじ上る高き階千尺の路

 うねりて険しきこと歩み難し

 首を回せば正法を修するを看るが如し

 天半ばに停まれば得度し難し

 恒心をもって足を挙ぐ万斤の腿

 苦を忍び精進して執着を去る

 大法の弟子千百万

 功成って圓満し高き処に在り

 

 師父、ありがとうございます! 同修のみなさん、ありがとうございます!

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一六年ニューヨーク法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 (2016年オーストラリア法輪大法修煉心得交流会発言原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/10/4/335889.html)
 
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