文/台湾の大法弟子
【明慧日本2019年12月7日】
尊敬する師父、こんにちは! 同修の皆さん、こんにちは!
私は、1999年に法輪功への迫害が始まった年に、母、弟、妹と共に修煉を始めました。まだ小学3年生だった私は修煉の最終目的までは分からなかったのですが、ぼんやりながらも、大法の素晴らしさに深く感銘しました。当時はまだ大法を世に広める段階だったので、私たちはあらゆる活動に参加しました。小さい頃には純粋に「法輪大法は素晴らしい」とみなに伝え、みなにも修煉してほしいと思いました。毎朝母たちと一緒に煉功場で煉功した時期は精神状態も好調でした。
印象に残った出来事は、ちょっとした事故でした。母とバイクに乗って学法と交流に行った帰り道に、突然接近してきた車に左足の甲を擦られました。ズキズキ痛みましたが気にしなかった私は、車が離れて行った後、母に話しました。「大丈夫?」と聞かれ、「大丈夫だよ!」と返事しましたが、家に着いてみると実は左足が車輪に巻き込まれ、甲の皮がひどく剥けていました。今もはっきりと傷あとが残っていますが、当時は怖くもなく、ましてや痛いと泣き声を上げようともせず、母に「薬は塗らない、病院にも行かない」と伝えました。なぜなら、師父がすぐそばで見守っていらっしゃるのを知っていたからです。怪我をした時でも、変わらず大法の各種の活動と児童学習班などに参加し、師父の慈悲と大法の威力を実感していました。
この修煉状態は高校まで続きましたが、残念ながら、気がつくと常人社会に流され、だんだんと自分の使命、人間社会へ降りてきた真の目的、人間の最終目的が「返本帰真」[1] であることを忘れてしまいました。ある日、母がいつものように、学法と煉功を催促すると、ついにイカれたように大声で「なぜ毎日そうしないといけないの? なぜお友達のように映画やテレビを見たり、外で遊べないの?」、「もう学法と煉功はうんざりだわ! これからは常人のように楽に生きるんだから!」と叫んでしまったのです。こうして私は自分の思想業に妨害されたまま、修煉の意思が緩んでしまい、飲み食いして遊んでばかりで旧勢力の思い通りに行動し、社会人を迎えました。
社会人になるにつれ、仕事での名利心、闘争心、歓喜心などいろいろな常人の執着が普段の生活の中に充満しました。時には名利を追求する強い執着心に操られ、学生時代のように順風満帆でなくなることに不安と憂鬱に陥り、毎日悶え苦しみました。師父は「名を為る者は氣恨むこと終生、利を為る者は六親を識らず 、情を為る者は自ら煩悩を尋ね 、苦しく闘い相って業を造ること一生」[2] とおっしゃいました。
高いプライドと負けず嫌いの性格のせいで、ずっと自分のストレスを母と周りの同修に打ち明けず、1人で夜中に涙しながら、人生の意味を考えていました。答えはとっくにあったはずですが、執着心に惑わされたうえ、学法をしない期間が長かったため、物事への見方は大法とかけ離れていました。そろそろ修煉の道に戻る時期かなと思いつつも、天にのぼる大事な本である『轉法輪』はなかなか手に取れませんでした。結局、数々の執着心に目をくらまされ、金稼ぎのため手段を選ばなくなるまで落ちました。
そんなある日、個人事務所が突然匿名で通報され、刑を科せられることになったのです。事の重大さを認識した瞬間、泣き崩れたのではなく、真っ先に思い浮かんだのは「同修と交流を急がないと!」という念でした。以前ならきっとパニックになり、友達に泣きついたり、不満を発散したことでしょう。同修との交流を通して、これは決して偶然な出来事ではなく、すぐにも『轉法輪』を手に取って拝読しないと私自身が耐え切れず倒れてしまうと悟りました。慈悲なる師父が常人社会に深く染まっていく私に、この件を機に修煉の志を取り戻すように督促してくださったのです。それからは、毎日大量に学法しました。『轉法輪』にある慈愛に満ちた師父の写真をみると、法を得てからの20年の間で無駄にした日々を痛恨し、むせび泣いてしまいました。
20年前に法を得た弟子として、私のために師父があれほどの業力を負担し耐えてくださったというのに、自分の誓約と使命を忘れたまま、常人社会で我を失い彷徨っていた自分が悔やみきれませんでした。
明白に認識できるようになったら、毎日学法に励み、大法の集団活動に欠かさず参加しました。その一方で、仕事を常人社会での基本ルールに合わせました。学法しながら自分の内に向けて見つめ直し、常人社会の「名、利、情」への追求を捨てるようにしました。師父は、「社会のつき合いにおいても、さまざまなトラブルに遭うことが考えられます。常人の中で修煉する人は、どれだけ大金持ちになっても、どれだけ地位の高い官職に就いても、個人経営で会社を興してどんな商売をするにしても、心を正しく保ち、公平かつ良心的に取引しさえすれば、何ら問題はありません」[1] とおっしゃいました。
個人事務所への判決結果に対しても、良いこととして捉えました。私の態度を不思議に思う友達にはよく「どうしてそんなに冷静に対応できるの? 私なら無理よ」と言われますが、その度に、「これは、師父に与えて頂いた最善の結果よ。不当な財産を手に入れたけど、所詮自分のものではなかったから、今は元に返しただけよ」と説明しました。
師父のご按排に感謝しています。修煉者に起きたことは全て良いことなので、自身の考え方次第であり、生活の中の細かい出来事も試練だと思います。そんな中でも難関を突破するにあたって、一つ念を踏み違えると全ての努力がダメになったりもするので、修煉者の一つの考え、一つの念は非常に肝心で、師父と大法への信念に対する試練でもあるのです。
今年の5月、母と妹と一緒にニューヨーク法会に参加することになりました。出発前に同修が法会の厳粛性について交流してくれましたが、私はあまり気に留めず、常人の仕事の日程をどんどん入れ、その日程の確認などで、この旅の重要性の認識が欠け、最良の修煉状態にありませんでした。その結果、搭乗の直前になり発券時にパスポート番号を入れ間違えたのに気づき、ニューヨーク行きの飛行機に乗れず、また、今回の旅用に準備した米ドルも台湾南部の家に置いてきていました。北西部の桃園空港から出発しようとしたので、焦りと苦しみで号泣してしまいました。先に出発する母と妹を見送り、1人で取り残され涙を流しました。邪悪はこんなにも私の修煉を妨害しようと狙っているのに、これほど神聖な法会に対し、自分の不注意で邪悪に隙を突かれるとは……。次の便を待つ間にひたすら自分の欠点を探しました。ビザは間もなく許可され、2日後のニューヨーク行きの便に乗ることができました。そして、2人の同修も同じ便に乗り、そのうちの1人は2017年ニューヨーク法会の時に少しいざこざがあった相手でした。当時、彼が頑張って私たちの面倒を見てくれたのに、感謝どころか彼の束縛と管理に不満だったのです。今回また一緒になったのはきっと偶然ではなく、心からしっかり感謝しないといけないと悟りました。こうして、彼のおかげで私は無事にニューヨーク法会に参加することが出来ました。
今年の7月には、香港の7.20パレードの数日前から現地入りし、真相拠点で真相伝えの活動をしました。今回は、常人の仕事の日程などを二の次にし、大半の時間を同修と真相伝えの活動に集中しました。仕事の時間が大幅に削られたのですが、不思議に限りある時間内に順調かつ完璧にこなせたのです。
真相拠点で、ある邪悪な人が現地の同修に、「なぜこんなに綺麗な女の子をここに立たせるんだ?」と聞いたようで、それに対し同修は「彼女は綺麗なうえに、大法まで得られたので、幸運なのです!」と答えたそうです。
同修にこの話を聞かされた瞬間、私は突然打ち砕かれたようでした。今までは、自分の不運を哀れに思い、業績の良い経営者を羨み、好運が訪れれば事業も日に日に発展するのにと嘆いていましたが、実は自分はこんなにも幸運の持ち主でした。幸運だからこそ大法を得られ、幸運だからこそ法を正す時期の大法弟子に選ばれ、幸運だからこそ、こうして横断幕と看板をかかげ、全ての中国大陸からの旅行客に「法輪大法は素晴らしい! 真・善・忍は素晴らしい!」と誇りをもって伝えることができるのではないでしょうか。
それからは、仕事の時間を合理的に設定し、正しくない経営方式を見直し、全てにおいて「真・善・忍」を基準にしました。過去には稼ぐためにお店をできるだけ遅くまで開いていましたが、営業時間を変え、多くの時間を学法と大法の各種の活動に回しました。ここ2年間は神韻の台湾公演の宣伝活動、お茶会の広報、商品販売などに取り組みました。
その間、裁判に応じたりと、依然として難関と試練も伴いましたが、その中でも修煉の要素を意識し、その都度自分の内に向けて不足を探し、執着を放下したといっても、表面にとどまっていないのか、見返りを求めたり、名利を求める頑固で強い執着心が隠れていないかと自分に問いかけています。
師父は「その博大で奥深い内涵は、修煉者だけが真に修める異なる次元の中で体験して悟ることができ、目の前に現れてくるもので、そうして初めて真に法とは何かが分かるのです」[3] とおっしゃいました。
私たちは大法の中で執着心を捨てるほかありません。同時に、立て続く難関は旧勢力の妨害だと思うので、旧勢力の狙い通りの道を否定しています。
今の私は、間違いなく真の修煉の道に戻っていると実感しています。法を得たその日から、私の全ては師父が預かっていらっしゃるので、如何なる旧勢力も私に試練すら与える資格などないはずです。同時に、師父のご指導通りに常に内に向けて不足を探し、旧勢力を否定しなければなりません。もうどんな難関に直面しても、戸惑ったりしません。大法は私の心身を浄化してくださいました。大法の中で実修してはじめて得られるこのような体験は、心性が向上した表れであり、法の偉大さをも表明するのです。
師父は、「行なうべきことをして、心を落ち着かせ、気に障ること、気に入らないことにぶつかったり、聞いたりしても気にせずに、正々堂々と行なうべきことを行なえば良いのです」[4] と説かれました。
今までの試練を乗り越えたからには、真の「法を正す時期の大法弟子」[5] になれたことをより一層大事にしたいと思います。
師父の広大な慈悲は、こうして再び私を天の家への帰り道に連れ戻して下さいました。同修の皆さん、どうか揺るぎなく法を正す道に突き進み、「師が法を正すことに手伝い、衆生を救い済度」しましょう。
最後に、師父の『洪吟』の「真修」を皆さんと共有し、励みたいと思います。
心に真善忍在り
法輪大法なる
常に心を修め
圓滿して妙なること窮まり無し
師父に感謝申し上げます。皆さんに感謝申し上げます。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「人を做す」
[3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「博大」
[4] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「大紀元会議での説法」
[5] 李洪志師父の経文:『北米での巡回説法』
(2019台湾法会の発表文章)