よく学法し 頑張って 神の道を歩む事に追いつく
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文/台湾の大法弟子

 【明慧日本2019年12月5日】

 師父こんにちは。

 同修の皆さん、こんにちは。

 私は1998年に法を得ました。当初法を得たばかりの時、この法があまりにも素晴らしくて、一通り『轉法輪』を暗誦しました。その後、このように暗誦するとなかなか進まないと思い、また通読するようにしました。最初は通読する度にたくさんの悟りを感じましたが、数年経ったら、学法する際に、だんだん心に入ってこなくなりました。特にグループ学法の際に読み終わった後、さっき何を読んだのか思い出せませんでした。私は学法を形式のように感じています。学法して心に入らないと時間の無駄遣いだけではなく、法に対する不敬の問題にも及びます。自分でも悩んでいました。学法して集中できる同修や、通読する際に一文字も間違わない同修を羨ましく思います。彼らはとても素晴らしいと思っています。学法がしっかりできないことで良くない状態が現れ、安逸心も溢れてきて衆生を救い済度することにも影響しているのに、自覚できていませんでした。一定の期間、法を暗誦しようとしましたが、長く続きませんでした。また数年が経ちました。2014年、煉功で毎月『轉法輪』と『洪吟』を暗誦することになりました。それで私はやっと『轉法輪』を暗誦することを決心しました。法を暗誦し始めたら、直ちに法に対する新しい悟りがあり、当初法を得たばかりの時の学法の状態と同じように感じました。そこで、法を暗誦するスピードを自分で決めて、どんどん前へ進んでいきました。

 最初は1段落ずつ暗誦しましたが、1段落をまるごと暗記できたら、次の段落の暗誦に入ります。復習の際に、すべてを暗誦できなくて暗記し直す必要があっても前に進んでいきます。その時は、ただ1段落ずつ暗誦し続ければ、いつかきっと本をまるごと暗誦できると思っていました。ある日、第三講の「法輪大法の学習者はいかに功を伝えるか」まで暗誦した時、師父は「わたしの言葉をあなたの言葉として語ることは許されません。さもなければ、法を盗む行為となります。わたしの言葉をそのまま述べて、先生がこう話していたとか、本にはこう書いてあるとか、を付け加えて言うべきです。なぜなら、そのように話せば、大法の力を帯びるようになるからです」と説かれました。師父の言葉をそのまま伝えるのなら、法の威力を持っていると認識できて、『轉法輪』をまるごと暗誦する願望ももっと強くなりました。

 毎日の固定時間の学法の他に、空いている時間をすべて利用して法の暗誦の復習をしました。歩いている間や、電車を待っている間、ご飯を食べている時でも少しでも暗誦の復習をしています。また毎日の三食を食べる時間も無駄遣いだと思い、二食に変えました。常人のことを出来るだけ簡略化したいと思っているからです。でも、どうしても一日か二日以内の内容しか覚えられません。数日前の内容を思い出せない箇所があります。場合によっては、前日にはっきり覚えた内容も翌日起きたら一部を忘れてしまいます。例えて言うと、自分が部屋を建て終わりましたが、一日か二日経ったら、どこかが破壊されたような感じでした。このように絶えず破壊され、絶えず立て直すことの繰り返しですが、もし自分の立て直しのスピードが破壊されるスピードより速ければ、きっといつか完成できると信じました。

 全体の暗誦が8回目になったある日のこと、第五式の功法をする時、考えが落ち着かず、前日暗誦した『轉法輪』を復習しようと思いました。その時はちょうど第二講の「天目の問題について」のところを暗誦しました。このタイトルの内容は、『轉法輪』60篇の中で最も長い1篇で、15ページもあります。完全には暗記できていませんが、努力し続ければ出来ると思いました。しかし煉功する時に、法を暗誦してよいかどうかをずっと心配していました。ある日『ヒューストン法会での説法』を読んだ時、このような質問がありました。

 弟子:煉功のときに心が静かにならないときは『轉法輪』を暗誦してもいいでしょうか? 
 師:はい、かまいません。

 すると、静かに煉功できるときは、静かに煉功して、静かにならない時は法を暗誦するようにしました。以前、静功をした時、居眠りをしやすかったのですが、真面目に法の暗誦を始めたら、眠くなくなりました。現在、『轉法輪』を十数回も暗誦しました。毎回本の最初に戻るとき、前回暗誦できた内容をまた忘れる箇所がありますが、暗誦すればするほど前に進むスピードが速くなります。この過程の繰り返しの中で、小さい頃に読んだ印象的な物語で、「愚公(ぐこう)、山を移す」の意味を理解しました。つまり、一度決めた道を黙々と根気強く毎日少しずつ歩き続ければ、いつか必ず目的地に達するはずだ、と信じています。修煉する前は、この物語は想像で作られ、人を励ますための物語だと思っていましたが、今は、大昔に存在した事実かもしれない、法を正すために敷かれた修煉文化かもしれないと考え直しました。

 法を暗誦する過程は、自分の思想が絶えず浄化される過程でもあります。師父は『轉法輪』の中で、「人間は生きているかぎり、物事を考えなければなりません。しかし、常人の中で迷う人間が、名誉、利益、色欲、意地などのために生じた意識は、時間が経つにつれて、しだいにある種の強い思想業力となってしまいます」と説かれました。大法を修煉して思想業を消去する際に、名利情のための執着から発生した念が絶えず湧いてきます。暇な時や歩くとき、電車を待っている時、さらに煉功する時でも、これらの念が生じてきます。

 法を暗誦し始めてから、これらの悪い考えが法で入れ替えられました。悪い念が生じることを減らすだけではなく、自分がずっと法を浴びているように感じました。

 私が参加しているプロジェクトは、主に編集の仕事です。毎日パソコンに向かって、大した感覚もないし、面と向かって真相を伝える時の人心の試練もないし、観光地で真相を伝えるときの強い風や日差しによる苦もありません。ただパソコンの前に座って、キーボードをたたいてマウスを動かし、静かにただ黙々とやっているだけです。これはまるで「愚公、山を移す」のように、黙々と根気よく続けてやるのと同じように感じました。自分が何をやっているのか、衆生済度とどういう関係があるのかを分かれば十分です。私達は定期的な学法と交流があります。よく自分の感想と悟りを話しています。これは自分が法を暗誦していることと関係があると思います。絶えず繰り返し暗誦する時、自分が理解できた境地の中に融けこみます。さらに心も非常に感動します。『洪吟』を暗誦する際に、何度も涙が出てきました。交流の際にも、よく自分の体験と感動を分かち合います。

 法を暗誦し始めてから、二つの方面で明らかな突破がありました。

 一、特に自分の考えに留意すること

 師父が 『轉法輪法解』で、「修めるということは人の思想を修めることで」と説かれました。『轉法輪』の「第四講」では「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある」と説かれました。普段よく自分の考えに留意するようにしています。マイナス面の考えが顕れたらすぐに気づきます。例えば、ある同修に対して意見が出たことに気づいたら、直ちに発正念して滅するようにすることです。煩わしいことを思いついたら、人心で考えるようになりやすいので、気づいたら正念で考え直すことです。もちろんうまく把握できず、どうすれば正しく対処できるか分からない時、もし自分が神様だったら、どうやってこのことに対処するかと考えます。神様だったら具体的にどのように対処するかは分かりませんが、このように考えていると、神聖で偉大な感じがします。その状況下で発した念は正しい念だと思います。当然状態が良くないとき、正と負の間を漂いますが、マイナスの念を滅するべきだと分かっています。身体に難があったとき、常に自分の考えに留意するようにします。師父は『轉法輪』の「第六講」で、「病気だと思えば、本当に病気を招いてしまうかも知れません。なぜなら、病気だと思った時、あなたの心性は常人と同じ高さになったからです」と教えてくださいました。自分の悟りですが、念がどこまで動くかによって、身体の状態もそこまで動くのだと思います。そのため、自分の考えをコントロールすることはとても重要です。師父は『二〇〇四年ニューヨーク国際法会での説法』のなかで、「如何なる環境においても、正念を固めなければなりません。なぜならば、あなたは大法弟子であり、特殊な生命だからです」とおっしゃいました。

 二、自分の私心に気づき、取り除く

 約2年ぐらい、ずっと交流をしたくない気持ちを持っていました。ネット上の編集者達の交流でも自分はほとんどしゃべりませんでした。しかし、面と向かってのグループ交流の環境を離れたら、比べて学び比べて修する環境もないし、人と接触する際の心性の摩擦も少なくなったので、自分がよく修煉できていないところになかなか気づかないし、さらに自分がよくできているように勘違いをしてしまいます。その2年間は話す度に声が出にくく、いつも喉の調子が良くないと感じていました。ある日の夜、学法する時に喉の調子が異常に悪くて、首全体もきつく感じました。頭の中に、「首は頸とも書くので、ボトルネックに遭っているのではないか」との念が浮かびました。後に同修と交流したら、煉功場へ行った方がいいと言われました。よく考えてみたら、この2年間煉功場へ行きたくないのには、さまざまな理由がありますが、これらの理由の裏には共通の根本の「私」というものがあるからだと分かりました。生命のそれぞれは、「私」により高次元から落ちてきたのに、なぜ、そのものをつかんで放さないのかと認識できて、やっと煉功場へ戻りました。

 ある日、煉功場である同修が1個のコップを持ってきてお水を飲みました。飲み終わった後、使ったコップを洗ってまた元の場所に戻しました。これを見た私はびっくりしました。どうして彼女はここまで出来るのだろうと思いました。この前煉功場に来たとき、一人の同修がお茶を出してくれましたが、お茶を飲み終わった自分は、直接階段を上り学法に行きました。コップを洗うことなんて、全然思いつきませんでした。この根が深い「私」そのものがまだ存在しているのだと認識できました。その後しばらくの間、以前やったことが映画のように、頭の中に浮かんできました。これまで自分に悪いことをしてきた事や、してきた相手のことを今考え直したら、皆自分が相手のことを考慮していなかったからです。とても悔しかったです。ある日『轉法輪』の第四講を暗誦する時、「われわれ煉功者においては、トラブルが突然現われることがあります。その時、どのように対処すればよいでしょうか? 平素から慈悲に満ちた、和やかな心を保っていれば、問題が起きた時には、一息おいて余裕をもって、適切にその問題に対処することができるのです。日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません。したがって、煉功にあたっては、高い、もっと高い基準で自分を律しなければなりません」という法理をしみじみと感じました。この内容を以前も暗誦したことがありますが、特に何も感じませんでしたが、今やっと分かりました。旧宇宙の私(し)の生命から、無私無我でなおかつ、他人を先に、自分をあとにする覚者まで修め遂げなければいけないということです。

 皆さんと法を暗誦することについて交流したかったのは、法を暗誦することで学法する際に、しっかりと集中できるようになり、修煉の中で自分自身の執着を比較的早く、突破することが出来るようになったからです。宇宙の法を正す段階が、法がこの世を正す時期に向かう中で、よく学法することこそ、神の道を正しく歩み、立ち上がって、勇猛邁進することが出来ると思います!!

 以上は、自分の悟りですので足りないところがあれば、慈悲なるご指摘をお願いします。

 師父、ありがとうございます。

 同修の皆さん、ありがとうございます。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/11/24/396186.html)
 
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