心を静めて学法することの大切さ
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年11月30日】最近、私はいろいろな挫折に遭いました。そんな中で、ようやく心を静めて学法し、自分を充実させる必要があると気づきました。そこで、毎日たくさんの時間を使って法を暗唱することにしました。しばらく経つと、心を込めて学法できることが、どんなに幸せなことであるかを体得しました。

 1999年以前、私は毎日昼間の2時間と夜間の4、5時間をかけて、師父の本『轉法輪』を学んだり、暗唱したりしていました。その時の光景と自分の心性が向上していく感動は、今でも忘れられません。

 1999年7.20に中国共産党による法輪功への迫害が起きました。私は大法弟子として大法を守り、大法の無実を証明するべきだと思うと同時に、大きなプレッシャーの中で心が揺れてしまい、以前のように大量に学法をすることが出来ませんでした。

 学法が緩んだ末に、法理に対する理解もはっきりせず、それによって恐怖心も生じました。その後、仕事に没頭した結果、修煉の時間を数年も無駄にしてしまい、2005年当時は心身ともにボロボロになり、何もできない状態にまでなりました。こんな自分を救えるのは大法しかないと思った私は、全てを放下して、心を静めて学法しようと決意しました。私は再び法の暗唱を始めました。ほんの数カ月だけで修煉状態にめざましい変化が現れました。すると、生まれ変わった私を見て、同修は「今のあなたを見ていると、大法の奇跡が現れたと分かったわ」と喜んでくれました。

 しかし、それは絶望的な状況を打開するために、大量に学法と法を暗唱したことによる奇跡だと思います。2年間ぐらいの間、大量に学法を続けたことによって、修煉の状態がかなり良くなり、正念も強くなったと思い、私は衆生を救い済度することに力を入れました。配った法輪功の真相資料の数量がどんどん多くなり、自分の悟った法理が同修の役に立つこともあり、同修の中での発言の重みも一層増すにつれて、だんだんと私には歓喜心と顕示心が芽生えました。その時期から法を学んでいても、心の中に入らないように感じました。毎日大法の事で大変忙しくなり、学法する事よりも重要視されていきました。

 実はその時、私にとって学法は副次的な位置に置かれていたのです。逆に歓喜心や顕示心、目立つことをしたがる心、それに法を正す時期の修煉の中でいかに完璧に出来るかなど、諸々の人心が一つの強い執着心となって現れてきました。

 修煉の過程で人心が起きる時は非常に微妙で、時には正念の中にも各次元の中での人心が混ざることがあります。もし随時にこれらの各次元での人心を取り除かなければ、修煉にずれが生じ、あるいは精進できないとか、修煉が落ちてしまう可能性があり、「三つのことを」やっているように見えても、執着心による妨害が起きてしまい、最後には落ちる可能性すらあります。ですから、修煉は本当に人心を修めることであり、表面的に何かを行なっていることではありません。

 要するに、学法をしていても法が得られず、法の奥深い中身を認識することが出来ない時には、自分の執着心を見つけ出せないことによって、執着心に妨害されている可能性があると思います。一方、執着心を見つける要素の一つは、普段から大法に照らして、自分の言動や考えに対して常に内に向けて探し、心性を高めることが必要です。

 同じように「三つのこと」を行なっている同修の中では、絶えず精進する人もいれば、徘徊する状態にいる人もいます。私から見れば、心を静めて学法することが出来なければ人心も多くなり、積み重ねると修煉の妨害になってしまうのです。そして「三つのこと」も阻まれるため、時間をかけてプロジェクトの表面から工夫しなければなりません。結局は効果が逆に薄いのです。しかし、もし本当に学法を通して自分を調整し、同時に内に向けて探すことを重視することが出来れば、随時に自分が執着していること、深層にある根本的な執着心を見つけ出すことが出来るのです。修煉状態が良くなるにつれて、携わっている人を救うプロジェクトも前に向けて、突破していきます。

 修煉の中で私は他空間にいる邪悪が、大法弟子に対して迫害する二つの方式が隠されていることに気づきました。その一つは大法弟子に学法を重視させなくすることです。妨害する理由は様々ですが、いったん学法の時間や質(中身)に影響があれば気を付けるべきです。その裏には邪悪による迫害の要素が働いているからです。

 妨害する理由については、生活の事情を利用するほかに、人を救うプロジェクトそのものを利用して学法の時間を奪うのです。人心は深く隠れていると同時に、往々にして強烈なものです。いったんあるプロジェクトに執着すればそれを重く見て、最後には学法よりも割合が次第に大きくなってしまい、それによって、学法が妨害されるのです。

 行なっているプロジェクトが進むにつれ、ますます学法をする時間が無くなり、そのような状態にいる同修は、なすすべがないと感じていても抜け出すことが出来ません。実は、我々が自分と大法の位置を正すことができれば、解決できると思います。生命として誰でも大法から離れることが出来ず、また、大法弟子として誰でも法の中で師父の按排を離れては、人を救うプロジェクトを成功させることが出来ません。

 ですから、謙遜な態度で大法の本『轉法輪』を学び続けてこそ、私達が弟子としてのあるべき姿であり、自分がそれほど重要ではないことを認識できるのです。師父の按排に従い、法理をよく悟れることこそ、師父が私達に教えてくださった衆生を救い済度することを立派にやり遂げるのです。

 もう一つの妨害は大法弟子の隠れている人心を見つけさせないことです。人心のままで大法のプロジェクトに参加していても、人心による妨害を生じさせてなかなか成功させず、大法弟子の時間を無駄にしてしまいます。

 これらの問題が現れる主な原因は、学法を重視しなかったことによると思います。大法弟子が修めて成就した部分は能力が高く、根基も優れているので、学法さえすれば素早く次元を突破し、執着心に妨害されにくいのです。長期に渡って心に法が浸透していないために、執着心もますます重くなる一方です。逆から言うと、執着心が重くなったからこそ、随時にそれを取り除かないと、学法を重視することも難しいのです。

 私を含めて多くの同修は執着心に妨害され、数年経ってもその状態から脱出できないのを見て、私は次のいくつの方面から特に注意する必要があると思います。

 1、毎日法を学ぶ、あるいは法を暗唱して、いかなる理由があっても、決められた学法時間を守らなければなりません。

 2、どんな時にも自分を普通の弟子の位置に置き、少しでも天狗になったり、あるいはプロジェクトの中で自分の成績や特長を自慢したり、場合によっては責任者の「身分」さえも偉そうに思うと、魔に妨害されて大法から引き離されてしまいます。そうなると、いくら長く学法をしても法が得られません。

 3、どんな事に対しても、重すぎないようにすることです。いったん重く見ると執着してしまい、心を静めて学法することが出来ません。私のこの数年の体験から、人を救うことにしても強く執着するようになり、それが修煉者を妨害して法から逸脱させるのです。強く執着する裏には、往々にして強い自我が潜んでいます。自我が強くなると法を得ることは出来ません。

 4、修煉が一定の段階になると、私(し)のために修煉する心を放下して、衆生を救い済度するため、大法を実証するために学法する必要があります。私の理解ではこれこそが法を得られるのです。また、恐怖心が法を得ることを妨害するので、取り除かなければならないと思います。

 以上は学法をする中で、法が得られることについての私の考えです。法を得ることはとても簡単な事ではありません。やはり学法の時間を守ることが大前提だと思います。それに、いかなる人心も修煉の妨害になり、真の法を得させません。私は修煉の厳しさを改めて感じ取りました。

 20年余りの修煉を振り返ると、1999年迫害が起きる前の段階と、その後2回にわたって、自分が苦境に陥いて無力を感じた時だけ、心を込めて法を学び、法を暗唱しました。この点から見ると、生命として心を静めて学法することが、いかに容易でないかが分かるようになりました。

 ここで、私は各プロジェクトの中で頑張っている同修たちに、できるだけ時間を作って学法し、特に法を暗唱することは、とても素晴らしいことだと伝えたいのです! 師父は「神の路は天門に通ずる」と語られました。法に則って修めることこそが、神の道を歩むことなのです!!

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「あなたを救うのは真に難しい」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/11/20/396038.html)
 
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