法の暗誦による悟り 私に真の悲しみと心配があるのか
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文/青年大法弟子

 【明慧日本2019年10月16日】私は大学生の時に、法輪大法を3年間修煉しました。最近、明慧ネットで同修の法の暗誦に関する文章をよく読んでいます。自分が以前に法を暗誦した時は、急いで前へ進めたい気持ちが多くあったことに気づきました。特に暗誦し始めたばかりの時、正しく暗誦できていないのに、むりやり前に進んでしまい、法理に従ってしっかりと高めることが出来ませんでした。

 今日、再び最初から真剣に暗誦し直そうと思い立ちました。でも、第5段落目の「本当」という言葉を間違ったり、忘れてしまいました。

 最近の修煉状態と結びつけると、普段の生活の中で、自分を真の修煉者として扱っていないことに気づきました。そして根本的にも、理性的にもよく法を認識することができませんでした。また時には、たくさんの雑念が頭に浮かんできて、まるで複数の偽の自我に身体をコントロールされているような感じでした。そこで、修煉とは、絶えず自分自身をはっきり認識する過程であると悟りました。

 ここまで考えると、以前の様々な悲しみや不満、さらに多くの執着心などは、全然大したものではないと認識できました。それらは本当の自分ではないからです。すると、法理に従って昇華したと感じました。

 師父の慈悲なるご加護と弟子の正念のご加持に感謝いたします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/10/2/394084.html)
 
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