「師を信じ、法を信じる」とは どういうことか
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年12月4日】明慧ネットに「『死』に直面している同修へ」という文章が掲載されました。その文章には、「難関を突破できたのは、数日前に読んだ同修の文章で、内容は旧勢力が彼の臓器を盗み出し、師父が瞬時に新たな臓器と交換してくださり、そのおかげで胸のつかえが取れました。師父は新しい臓器に取り換えてくださいました。私のインスリンの分泌機能がなくなった膵臓も、おそらく、師父が新しいものに取り換えてくださるのではないか?」ということが書かれていました。師父が人体のパーツを交換することを、この同修はまったく考え付かなかったことでしたが、他の同修のこの交流文章を読んで、「胸のつかえが取れたと感じた」と記述してありました。さらに、少し前、ある中年の女性同修との交流がきっかけで、私は「師を信じ、法を信じる」について、もう少し突っ込んで書き綴ることに決め、同修の皆さんと切磋琢磨したいと思います。至らない点があれば、ご指摘をお願いします。

 大法弟子として、第一に実行しなければならないのは「師を信じ、法を信じる」ことです。これについて、皆さんも特に言い返すことはないと思います。では、一歩踏み込んで論じます。「師を信じ、法を信じる」とは、一体、何を信じることでしょうか?

 少し前、地元にいる中年の女性同修Aは体の状態があまり良くなく、そのことで大法に悪影響を及ぼすと心配していました。大法を守りたいと思う同修Aの心は、当然、良い考えですが、この心配が修煉の一つの障碍になると私は考えました。そこで私は時間をつくり、同修Aと交流しました。もう一人の同修Bもその場にいました。私はその同修Bにも問いかけました。「大法弟子として、まず、何をしなければならないのでしょうか?」。同修Aが考え込んでいる時、もう一人の同修Bは、「師を信じ、法を信じる」と答えました。そこで続けてまた「師を信じ、法を信じるとは一体何でしょうか?」と聞き返しました。その瞬間、彼女らは困惑し、どのように答えたらいいのか、困惑しているようでした。私は女性同修Aに再び問いかけました。「あなたは自身のせいで大法に悪影響を与えると心配していますね? 私はその心配を感じています」。確かに、そのような考えがあると言いました。女性同修Aに言いました。「その考えがあるのは、師を、法を信じていないからではないでしょうか?」。彼女達はすぐには理解できていない様子でした。

 そこで私は例を挙げて話しました。「あなたが世界ランキングが第1位の大企業の副社長だとします。年収は1千万元(およそ1億5500万円)です。あなたはお金を稼げないことを心配しますか? あなたは未来がないと心配しますか? 一方、私たちが修煉している大法はこれほど偉大で、乾坤を正すことができ、宇宙を創造でき、一人の常人が『轉法輪』を一目見ただけで、地獄の鬼が恐れて収容できなくなるのです。その威力はどれほど強大で、大法を修煉して得られた恩恵も、どれほど大きなものでしょうか。どうして悪影響を及ぼすと考えますか。その心配は修煉の障碍です。したがって、直ちに打ち消すべきです!」。その時、同修は私の考えが『斬新』であると感じ、私の考えを認めてくれました。その後、また「師を信じ、法を信じる」ことについて、お互いに交流し合い、洗煉して深めていきました。

 「師を信じ、法を信じる」ことについて語ると、ある同修は、「師父が何か仰ったら、私たちはその通りに行なうことだ」と言いました。当然、これは間違っていません。しかし、それだけに限らないと思います。例えば、本文の冒頭で述べた同修は、事実、師父の威徳に対し、大法の威力について、恐らく多く考えたことがありませんし、実際の体験が少ないかも知れません。そこで、内臓の取り換えのことを聞いて彼女は驚きました。私に言わせればこれは、「師を信ぜず、法を信じないに帰結します。そして、師父の神通や大法が全能であることを信じておらず、少なくとも、思い至らないのです」。私は機械の設計の仕事に従事しています。工学の技術面から「師を信じ、法を信じる」について、例示します。私は自動車産業を立ち上げ、設計し、生産し、修理する、全ての事をこなします。私が設計した車であれば、どこが壊れても、どの部品を交換すべきか、どこを修理すべきかが、当然簡単にわかります。そうであるならば、人が神に作られたものであり、当然、神が人の体の臓器を交換することと、人が車の部品を交換することのどこが違うでしょうか? 同様に簡単なことでしょう。さらに、師父はどれほど高い次元の神や、どれほど大きな宇宙であっても、一念で創造することが出来るのです。

 『論語』の冒頭に「大法は創世主の智慧です」[1]という文言があります。この文言について考えてみてください。この智慧はどれほど大きいのでしょうか!

 師父は「とはいっても、法にはできないことはなく、いかなることに対しても、すべて圓容しており、破壊できないものです。しかも、なんといっても修煉者は師父に見護られているのです」[2]と説かれています。

 ある時、私は連行され独房に拘禁されました。一般人の認識から見ると、食事は粗悪で、日差しは無く、空気は悪く、栄養は不足し、ビタミンも不足していました。一般人であれば、確かに、このような状態になっていたでしょう。長い間、刑務所に拘禁されている受刑者は、皆こういった問題に直面しています。その時、私は一つの法理を思い出しました。「宇宙のあらゆる空間を構成する物質が、ほとんど全部この功の中に含まれています」[3] 。人の身体に必要な栄養やビタミンなどは、煉功を通じて煉ることができ、人の言う栄養失調の状態やビタミン不足の問題も現れることはないのです。私はこれを固く信じ、同時に刑務所の中で煉功するように努力しました。煉功の持続性があまり良くないのですが、この問題を解決するには十分でした。その後、刑務所から出た時に、私の容姿は社会の中で正常に生活していた状態と変わりありませんでした。むしろ、高校卒業した頃より若く見えたかもしれません。

 当然、真に「師を信じ、法を信じる」ことは容易なことではありません。どのように行なうか、それはまた別の話です。少しの感想を書き出して同修の皆さんと共有したいと思いました。至らない点がありましたら、ご指摘ください。

 注:
 [1李洪志師父の著作:『精進要旨』「論語」
   [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「大法とは圓容しているものである」
   [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/9/24/393678.html)
 
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