別の視点から 「忍」を考えてみる
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文/中国の大法弟子 

 【明慧日本2019年10月21日】最近、突然「忍び難きは忍びうる」[1]について、新たな体得がありました。

 修煉者として屈辱を受けて辱められたりする時、忍ばなければならないことを、皆は理解し、認識しています。しかし、誘惑に遭った時の「忍」は、意外と気付かれにくいものです。

 人々を腐敗堕落させる環境に生活している私達はしばしば、名、利、情からの誘惑に遭遇します。そのような誘惑に対しても、私たちは忍ばなければならず、動じない心を持たなければなりません。誘惑に対する「忍」は、屈辱を受けて辱められたりする時の「忍」よりも対応がもっと難しく、私たちが怒りを爆発しないだけではなく、心が動揺しないことも求められます。そして、この時の「忍」はそれほど目立たず、時には気づきにくく認識しにくいもので、しかも、それらが私達にもたらしたのは「喜び」や「気持ちのよさ」と言うような感覚で、「忍」とはあまり関係がないように見え、そう思われがちです。

 唐の狄仁傑(てき じんけつ:中国唐代の政治家で、高宗・中宗・睿宗・則天武后に仕えた)は試験に行く途中で、美人の人妻に誘惑されました。その時、彼は少しその気になりました。しかし、結局のところ、彼はぐっと堪えて大きな徳を積み、最終的に宰相になりました。狄仁傑はただの常人です。私たち修煉者は彼よりもっとよく行ない、断固として誘惑に対抗すべきです。それをやり遂げるには、法の基準に従わなければなりません。同じ色欲の例を挙げますが、そのようなものが現れた時、それらは決して「良いものではない」とはっきりと認識していれば、私たちは誘惑されることがなく、自分を制御することが出来ます。同時に正念を持って、それらを一掃すればいいわけです。

 広い範囲で言えば、私達を妨害するすべてのもの、それ自体が良いものか悪いものかは関係なく、それらはすべて魔の役割を果たしているのです。以前、私は古代の詩を暗唱するのが大変好きでした。しかし最近、法を学ぶ時、あるいは発正念をする時に、それらのものが絶えず脳裏に入って来て、私の心を動かして刺激します。私もよくそれらのものにつられてしまい、つまり、しっかり自分を制御することが出来ませんでした。

 修煉することは確かに難しく、魔の妨害も本当に千変万化するものです。唯一の方法は多く、もっと多く法を学ぶことです! 法を暗唱することはとても効果的です! 忍び難い時こそ、忍ばなければなりません。なぜなら、それは私達が高まる絶好のチャンスだからです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/9/28/393888.html)
 
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