師を信じ、法を信じることは永遠に変わらない
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年11月15日】師父は、「学習者として、師父の要求に従って行なっていなければ、これは小さい問題ではないはずです。旧勢力はすべての大法弟子に対してそれらのものを按排しました。もし大法弟子が師父の要求に従って行なっていなければ、きっと旧勢力の按排に従って行なってしまったことになります」[1] と説かれました。

 師父は私たちにしっかり三つのことを行なうようにと要求されています。この要求は、時間や環境の変化に従わず、普通の生活の中でも、そして迫害を受けている環境の中にしても、しっかり三つのことを行なわなければなりません。つまり、どんな環境であっても、この三つのことをしっかり行なえば、師父の按排された道を歩むことになります。もし同時に、この三つのことがしっかりと行なわれなければ、旧勢力が按排した道を歩むことになります。

  一部の同修は普通の生活の中で、全面的に三つのことをしっかり行なえますが、迫害の環境になると、全面的にしっかり行なうことが出来なくなります。実はこれは師を信じるか、法を信じるかの試練です。環境が変わっても、「師を信じ、法を信じる」ことが出来るかどうかの試練です。もし、迫害の環境の中でも、いつも通りに三つのことをしっかり行なわなければ、あなたは100パーセント師を信じ、法を信じることに達していないことが証明されます。つまり、あなたは師父が按排された道から離れて、旧勢力が按排した道に踏み出したことになります。

  他の角度から見れば芝居をするように、あなたが全面的に三つのことをしっかり行なって衆生を救い済度する時、あなたは衆生を救い済度する芝居を演じ、そして、あなたは主役を務めています。そうでなければ、あなたは邪悪の按排に協力することになります。邪悪はあなたが三つのことを行なわないように仕向け、さらに、修煉を放棄することを望んでいます。だから、迫害の環境の中で、三つのことをしっかり行なわなければ、あなたが「師父を信じ、法を信じる」という基準に達していないことになるし、そして、邪悪に協力していることを証明しています。あなたは衆生を救い済度する主役の立場から、旧勢力が按排している迫害の芝居の中の脇役に変わります。

  一部の同修は迫害を受けた後、三つのことをしっかり行なっていないのですが、転向することにしっかり抵抗していますが、それでも、あなたは邪悪の迫害に協力しています。あなたは迫害の中でしっかり迫害停止を呼びかける中で、衆生を救い済度することについてしっかり行なうことが出来ません。つまり、あなたは法を実証し、衆生を救い済度する中の主役を放棄して、旧勢力が按排した迫害の芝居の脇役を務めることになります。旧勢力は按排したあなたがどのように迫害の中でしっかり行なうことができるかどうかです。つまり、あなたは旧勢力の按排を認めました。たとえあなたが迫害を乗り越えても、それは師父が按排された道ではなく、そもそも発生するべきではないことです。なぜなら、このことは大法弟子だけが迫害を受けていることではなく、まず、大法への迫害です。世の人々は本当の被害者になり、その迫害に参与した警官らが真の迫害を受けています。

  この迫害によって、人身を失った同修もおり、また、残酷な迫害を乗り越えられた同修もいます。しかし、皆さん考えてみてください。正法時期の大法弟子として、この世に降りて来た目的は何でしょうか。師父に手伝って法を実証し、衆生を救い済度することではないでしょうか! われわれの責任や使命がまだ果たされていないのに、多くの時間や精力を旧勢力が按排した邪悪の試練に費やすことは、それは正しいことでしょうか! もったいないことではありませんか。つまり、旧勢力が按排した邪悪の試練の中で抵抗することや、排除することではなく、師父が按排された道をしっかり歩み、三つのことをしっかり行なうこと自体が旧勢力の按排を否定することになるのです!!

  師父が按排された三つのことで、一つ目のこと、つまり「学法」をしっかり行なえば、法理が明確になり、法に照らして無条件に内に向けて探し、しっかりと自分を修めて心を正しくすれば、旧勢力が乗じする隙間がないし、旧勢力の按排を排除することが出来ます。二番目のこと「発正念」をしっかり行なえば、迫害を実施する警官らをコントロールしている邪悪を取り除くことが出来て、その邪悪がいなければ、警官らが大法弟子を迫害する能力もないから、この面でいえば、旧勢力の按排を排除することが出来ます。三つ目のこと「真相を伝える」ことをしっかり行なえば、真相を伝えることを通して、警官を救い済度し、邪悪が警官をコントロール出来なくなり、警官も大法弟子を大事にすることが出来て、こうすれば、旧勢力の按排を排除することが出来ます。以上の理由で、「三つのこと」をしっかり行なえば、旧勢力の按排を排除することが出来るし、大法弟子の使命も果たすことが出来ます。

 それゆえに迫害の中で、私たちは師父が按排された三つのことをしっかり行なえば、旧勢力の按排を否定することができます。もし、この三つのことの全てをしっかり行なわなければ、旧勢力の按排を排除することが出来ず、残酷な迫害を受けるところまで歩んでしまいます。そうなれば「必ず大法を修め、絶対に転向しない」という最後の正念を守ることしかなくなります。旧勢力が按排した迫害の中でしっかり行なって、邪悪の試練を乗り越えるしかありません。これは仕方がないことです。

  つまり、全面的に三つのことをしっかり行なえず、100パーセント師を信じ、法を信じることが出来なくても、師父が説かれた法の一部でも信じることが出来れば、その迫害にある程度の抵抗作用を果たすことが出来ます。しかし、旧勢力の按排した迫害の中でしっかり行なって、その按排を排除することは高い代価を支払わなければなりません。それは大きな苦痛であり、さらに命を費やすような代価になります。

  別の角度から言えば、あなたは迫害を乗り越えても、あなたに迫害を与えた警官が滅ぼされ、彼が地獄へ落され、借りを返さなければいけません。大法弟子の使命は衆生を救い済度することではないでしょうか。私たちは衆生を救い済度せず、逆に世人を巻き込んで大法に罪を犯させて世人を滅ぼし、これは私たちが望みたい結果ですか? だから、衆生を救い済度する使命を背負った大法弟子としては、他の選択肢がなく、自分をしっかりと修め、100パーセント師を信じ、法を信じて、三つのことをしっかり行なうことを通して、旧勢力の按排を否定して、できるだけ残酷な迫害を受ける境地まで至ることを避けなければなりません。私たちは衆生を滅ぼすことができず、できるだけ衆生を救い済度するしかありません。迫害の環境の中であなたがしっかり行なえば、衆生を救い済度することができます。逆にしっかり行なわなければ、衆生を滅ぼすことになります。だからといって、これは、あなたが個人的にしっかり行なえるかどうかの問題ではなく、あなたが衆生を救い済度するか、それとも衆生を滅ぼすかの問題です。

  実質的には、「善」を修めることであり、あなたが「自分」を放下することができ、「私心」がなければ、全て人々のことを先に考えることができ、どう行なえばいいのか、あなたにはわかるはずです。迫害が始まってから、大法弟子の思惟方式には二種類あります。一つは「善」に基づいて、積極的に主動的な思惟で、「私はこの法を実証する機会をしっかり利用して、自分をしっかり修め、邪悪を取り除いて、衆生を救い済度して、主役をしっかり務めます」。もう一つは、「私」に基づいて消極的であり、受動的な思惟で、「私はどのようにこの迫害に直面するか(まず、自分を旧勢力が按排した迫害を受ける位置に置き、主動的に旧勢力が按排した迫害の芝居の脇役を演じます。これは旧勢力の按排を認めることではないでしょうか)、こうすれば、残りのことは、どうやって迫害されないのか、どうやって転向させられないのか、どうやって乗り越えるのか」というこであり、考えていることはすべて自分自身のことです。一番目の考え方は「善」に基づいて、法に則って、迫害を否定するのみならず、大法弟子の使命もしっかり果たすことです。二番目の考え方は、「私」に基づいて、法に則っておらず、迫害を否定することができず、大法弟子の使命も果たすことができません。

  言い換えれば、「善」に基づく時、考えるのは、どのように法を実証し、どのように衆生を救い済度するかです。「私」に基づく時、考えるのは、どのように迫害を終わらせて、自分の解脱のことを求めています。

  大法弟子は「真・善・忍」を修めることです。何を行なっても「善」に基づかなければいけません。大法弟子として、この二つの選択肢「衆生の責任を取って、旧勢力が世の人々への迫害を終わらせるか、あるいは、自分を守って、自分への迫害を終わらせるか」、どちらを選択するかということで、私たちはこの二つの選択肢を避けられません。もし、「私心」が動いて、自分を守ることを選択すれば、あなたの基点は法に合わず、常人が旧勢力の迫害という按排を否定することと等しいことになります。いくら頑張っても成功しません。逆に「善」の心を動かして、大法の威力が現れると、旧勢力による世の人々への迫害を終わらせることができます。

  多くの同修は迫害された後、旧勢力の按排を否定できず、最後には刑罰を下され、刑務所に送られました。私個人の考えですが、多くの原因の中の主な原因は、「私心」によって促成した結果です。普段、皆は基本的に周りのことを大事することができますが、迫害の環境の下で、個人の利益が非常に損を受ける時、さらに身の安全を脅かされる時、自分自身を守る「私心」が出て来ます。すると、すべての考えは自分自身を守るところに使われ、どうやって迫害を受けずに済むのか、どうやったら転向させられないのか、どうやって迫害を終わらせるのか、どうやって乗り越えるのか、これらすべてが「私心」であり、法の基点に基づいていません。そして逆に、旧勢力が迫害する口実になります。修煉の理屈は常人の理屈と正反対です。あなたが「私心」を動かして、自分を守れば守るほど、逆に守れなくなり、旧勢力が迫害を実施する口実になります。あなたは自分のことを放下し、他人のためを考えれば、師父はあなたを助けに来てくださいます。そうすれば、誰もあなたを迫害する勇気がありません。あなたは行なうべきことをしっかり行なえます。

  「私」がなければ求めることもありません。「私」がなければ恐れることもありません。「私」がなければ真に「善」に達することができます。「私」がなければ慈悲になります。「私」がなければ完全に法のため責任を取れ、衆生に対しても責任を取れます。

  修煉のもっとも肝要なポイントは、師を信じ、法を信じることの「信」です。あなたの大法への信用度は、修煉の中でどのぐらいやり遂げるかを決めます。大法の威力もそれに応じて現れます。修煉中のすべての試練は私たちが「師を信じ、大法を信じる」ことをチェックしています。もし、「師を信じ、大法を信じる」ことをやり遂げるなら、法に照らして対応する時、あなたは難関を乗り越えられます。出来なければ、難関を乗り越えることもできません。もし修煉者は如何なる環境や状況においても、「師を信じ、大法を信じる」ことをやり遂げるなら、誰でも試練を按排する勇気がなく、修煉の道にも障害物がありません。

  「相は心から生じる」[2] についてですが、修煉で一番難しいことは自分の心を正すことです。もし、私たちが如何なる状況に対しても、自分の心を正しくすれば、師父が私たちの盾になれて、周りの全ての障害を追い払ってくださいます。自分の心を正す唯一の方法は、師父を信じ、法を信じることです。

  「師を信じ、大法を信じる」ことは少しでも割り引きをつけられません。少しでも割り引きをつけると、師父の按排から離れます。つまり、旧勢力が按排した道に踏み込みことになります。「師を信じ、大法を信じる」ことを選択するということは、師父が按排された道を選択するということであり、そうでなければ、旧勢力の按排した道を選択することになります。

  「師を信じ、大法を信じる」ことは、旧勢力の按排を否定する根本的な方法です。「師を信じ、大法を信じる」ことは、人が人間の次元から神の次元へ行く唯一の道です。「師を信じ、大法を信じる」ことは、師父を手伝って法を実証し、衆生を救い済度し、大法弟子の使命を果たせる根本的な保障なのです。

  以上は、私が現段階の修煉によって得た悟りです。不適切なところがあれば、是非、慈悲をもってご指摘ください。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「考えをはっきりせよ」
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「大紀元会議での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/10/17/394671.html)
 
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