自分の歩む道を正しく選択しよう
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文/中国の大法弟子

  明慧日本2019年10月13日】根が師父の所に根差しているかどうかは、それは師父が按排された道を歩んでいるか、将来の結果がどうなるかの要です。常人は比較的に簡単です。大法に対する態度や三退をしたかどうか、それは次のステップに行けるかどうかの境目となります。次のステップに行けない人は淘汰されるでしょう。

 大法を修める学習者(ここではとりあえず、大法弟子と呼ばないことにします)にとって、根本的に法と師を信じ、怨みも後悔もなく、師父が求められた無私無我の生命になろうとして、しっかりと師父が按排された道を歩んでいれば、それは必ず新しい宇宙に入れるでしょう。たとえ、あれこれの基準を満たしていなくても、師父はきっと私達のために圓容してくださり、善解してくださいます。もしかすると、最後になると、私達自身もその圓容する力や善解する力を備えるかも知れません。

 旧勢力が按排した道を歩む学習者には、いくつかのパターンがあります。典型的なものは法を読み、功を煉り、心も修めますが、しかし人を救うことをしません。また、一部の人は根本的な執着を取り除かず、一部の人は難関の中で反対側に進み、あるいは、反対側に進んでいるにもかかわらず、未だに気付いていない、あるいはその中に陥って脱出できません。また、生死の関門に遭遇しても生死を放下できず、自我を放下できず、邪悟に走ってしまうなどがあります。このような人は新しい宇宙に入ることができず、旧宇宙と共に解体してしまうかも知れないと、私は理解します。なぜならば、中間の道がなく、他の結果がないからです。

 真に自我を放下して心を開いて師父について行き、製鋼炉にも徳利にも飛び込み、正々堂々としていて、師父のおっしゃった「法船に乗って悠々としています。善きかな! 力を奮って精進し、圓満成就に至るのです」[1] となれば、これは最高です。

 表では人を救うこともするが、しかし、常人の狡(ずる)さで自らを欺く心を持ち、「ほら、私も三つのことをやっているし、大法弟子と言えるでしょう」と言うような利益心を抱いている人は、隠れて出て来ない人よりも劣る、と私は思います。

 もし、「師父について行かず、師父が按排された道を歩まなければ」、それならあなたは一体どこに行くのでしょうか? 師父は私たちを新しい宇宙に連れて行こうとされていますが、あなたは行かないことを選択したのではないでしょうか? それならその結末はどうなるのでしょうか? それは淘汰される、破壊されるのではないでしょうか? 私たちは師父との間に誓約があります。師父は「交わした誓約通りになります。二回目の機会はありません。二回目の機会はありません」[2] と明示してくださいました。

 私(し)の為の人心を放下していなければ、頑固な自我を放下していなければ、それはつまり、億万年の間、私たちが旧宇宙に根差していたその根を抜き取っていないことになります。私(し)の為の部分は旧勢力が固守したものと同じものです。私達は口では旧勢力を完全に否定する等と言いますが、しかし、旧勢力はどこにいるのでしょうか? それぞれの空間に、法を正すことに関与した旧勢力は20%ありますが、それに対して、私達が対応する空間の何%かは、私達が持っている旧宇宙の私(し)と自我ではないでしょうか? 完全に旧宇宙の私(し)と決裂することが、旧勢力を完全に否定することではないでしょうか!!

 すべての学習者は、常に自分が真の大法弟子であるかどうか、師父が何を求められているのか、私達が時々刻々、師父が按排された道をしっかりと歩んでいるかどうか、と自問すべきではないでしょうか!!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「悟」

 [2] 李洪志師父の経文:『二〇一五年米国西部法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/9/12/392961.html)
 
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