文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年7月28日】最近、『明慧週刊』の項目の中の「大陸総合」の中にある、大法弟子が迫害された文章を読んでも、また「修煉の園地」の大法弟子の修煉交流文章を読んでも、意識的に自分をその中の主人公に置き、自分のいる次元の法に対する認識でもって、同修の体験文から正しい教訓を汲み取るようにしています。そうすることで、その迫害が発生する裏の要素を見抜きやすくなりました。
例えば、ある同修の修煉体験で「ある日、突然、病業が現れました。そこで、骨や心に刻みつけるほど大変な苦痛を味わい、そんな苦しい中でも、師父を信じ、大法を信じてやっとその病業の関を乗り越えました。そして内に向けて探し、修煉状態を正すことにしました。自分が暫くの間、常人の映画やドラマを見る中で常人のように安逸心を求め、自己放縦したことによって、この生死の関をもたらしたとわかりました。この関はまったく自分が求めて得たものであり、同時に自分に無数の耐え難い苦痛をもたらしました」と書かれていました。
このような、自分が求めたことによってもたらされた関や迫害を乗り越えたという例が、「修煉の園地」の中にたくさんあります。師父のご加護の下で、最終的に乗り越えることが出来ましたが、心性の向上にどのくらい「受益」したのでしょうか? 我々修煉者として、この安逸心は取り除くべき執着心ですが、安逸心を「求める」ことは旧勢力の邪悪な要素によって与えられたものです。その一念が生じただけで、彼らはすぐにその心を掴み、さらに大きくさせます。すると、あなたは修煉がとても苦痛で辛いものであると感じ、より一層大きな恐怖と圧力を感じるのです。さらにこれが原因で、大法の本を手に取ることも億劫(おっくう)になり、意気消沈してしまいます。そして、常人の悠長な生活が良いものだと思わせて、徐々に常人に同化させるのです。その結果、生死の関や各種の迫害を自ら「求める」ことよって、生じました。
また、怨恨心、闘争心、顕示心、恐怖心を抱いて、繰り返して魔の妨害を「求める」ことにより、これらは警官からの嫌がらせや各種のトラブルという事象として現れてきます。実際に私たち修煉者は大法に基づき、常人の観念と認識を放下し、この世を見ることが出来れば、常人がいかに哀れかがわかります。最近、私の頭の中に「映画のスター・ウォーズの中で、宇宙人の操る機械で地球人を迫害して血塗られたシーンのようなものが多く出てきます。これは邪悪の魔が無数の末梢血管みたいな管を使ってそれらを身に纏い、頭に邪悪な現代人の観念と行為を注入されて、同時に精華を採取している」というイメージが浮かび上がりました。これはこの世で例えると、人々がTikTok(中国企業が開発運営している動画アプリ)にハマって頭を下げて、ずっと携帯電話を見続けている様子とそっくりです。常人はこのようにコントロールされ、迷いと無知の中で互いに傷つけ合っています。また、邪悪にコントロールされて大法弟子を迫害している者も中にいます。
もしこのような場面が現実になって、あなたの目の前で起きたとしたら、あなたは彼らを怨みますか? 利益を奪われたと言って彼らと争いますか? 哀れな常人に対して顕示しようとしますか? 迫害の発生の要素が他空間の邪悪な魔によって操られていることだとわかっていても、邪悪な魔を怖がりますか?
「苦」は常人にとって悪い事ですが、修煉者にとっては極めて貴重で、まるで「宝物」です。というのも、他の空間では苦を嘗めることができないため修煉が出来ません。私たち大法弟子は常人の中で修煉していますが、誰一人として苦行僧のような状態になっていません。かえって執着心を放下すれば、生活状態が常人を超えることができ、本来の幸せを享受することが出来ます。大法修煉の静功では、卵の殻の中に座っているかのように心地よく、玄妙な状態が現れます。生死の念がなければ、死はあなたから遠く離れていき、苦痛の念がなければ、修煉の心地よさを体験できるのと同じ道理なのです。
しかし、これは修煉の中で執着心を放下することによって自然に達する状態で、求めて得たわけではありません。大法弟子の修煉体験でよく、静功で足の痛みがなくなる感覚を体験し、さらに上の次元へ突破し続けられるかが心配であると書いてあるのをよく見かけます。ただ、修煉の多くの苦痛は、私たちの執着心を求めることによって現れてきたもので、こうして「求める」ことによってもたらされた「苦」は、本当の意味での心性の向上に役立つものでしょうか?
個人修煉で悟ったもので、不足のところがあれば、慈悲なるご指摘をお願いします。