読者の心からの声:善は人を救い、自分も救う
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明慧日本】三蔵法師が『大唐西域記』の中で、こんなことを記載した。昔、?国(今の和田)の北方にカロラーカという都市があり、安楽かつ裕福であるが、神様を信じない。ある日、町に奇特な服装を着、変な顔たちをしている行脚僧が現れた。国王が報告を受け、いずれの人もその僧侶に砂を投げ、追い払うことができる、と命じた。そして、行脚僧は布施を請えないばかりか、追い払われることになった。ただ一人の仏像を敬う正直で年輩の人が配慮し、ひそかに飲み食いを与えた。 “この都市の住民が砂を投げ、私を追い払ったため、死滅を招く災難を与えられることになる。私が去った後、神様は砂を混ぜた雨を降らせ、カロラーカは埋もれ、生命は全滅する。あなたは早急に去らなければならない。”と行脚層は年輩の人に告げた。慈しみ深い年輩の人はそれを聞くと、あちこち知らせに行ったが、誰も信じなかった。かえって、笑われたり侮辱されたりした。年輩の人は道理を説いても受け入れてもらえず、しかたなく一人で逃げ出した。行脚僧が去った七日目の深夜、皆眠っているところで、突然荒れ狂う風と共に、砂の混ざった雨が空から降ってきて、たちまち繁栄している都市は埋もれた。それ以降、カロラーカは砂山になり、永遠にタクラマカン大砂漠に眠っている。 

  このことから見てみると、カロラーカの国王は慈善心がないため、人を害し、自分をも害した。民衆たちは国王の命令を盲従し、人を害する道具になり、結局国王の葬式に付き添うことになった。善良かつ年輩の人が災難に遭っている行脚層をやさしく扱ったため、救われた。これは中国のことわざ“善には善の報い、悪には悪の報いがある”に従った。皆さん、このことわざを軽視しないでください。権利も無く勢力もない中国の民衆は法輪功を勉強するため、権力を握っている者に弾圧されている時、彼らをやさしく扱うか、打撃を加えるか、これはすべて自分自身にかかっている。私は善良かつ年輩の人に学び、街角の学習者をやさしく扱い、彼らが配った資料を読み、彼らの心からの声に耳を傾けるのは、中国では彼らの真の声を報道するマスコミがないからである。私は“善には善の報い、悪には悪の報いある”ということを深く信じている。 

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2001/8/12/14680.html)     更新日:2012年1月14日
 
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