超然とした心境
■ 印刷版
 

文/江蘇省の大法弟子  

 【明慧日本2020年10月7日】大法弟子である私たちは、身を入れて法を学ぶことを意識しなければいけません。私が観察したところによると、私の周りの大法弟子は基本的に求める意図を持って法を学ぶ状況が多くみられました。法を学ぶときに、いい加減に扱い、雑談をする人が多いのです。

 私達は、心が大法とかかわりのないことに打ち込んでいると分かれば、どうして、それを改めることができないのですか?  私たちの「心」はそんなに価値がないのですか? だからこそ、修煉の初めから終わりまで、ずっと「悟性」という問題があるのです!

 学法するとき、身を入れて法を学ばなければなりません。つなげて考えることが必要なので、集中しなければなりません。精進している大法弟子は、毎日時間を見つけて大法の本を読み、大法の録音を聞く必要があります。なぜなら、『轉法輪』の中には理解できないことがたくさんありますが、多く法を学び実践すれば解決できるからです。また『共産党についての九つの論評』も読むべきです。明慧ネットでの交流文章を読んだり、法輪功迫害の実態を伝えたりする必要もあるので、他の無関係なことに気を配る暇はないのです!

 「盧を結びて人境にあり 而も車馬の喧(かまびす)しきなし 君に問う何ぞ能く爾(しか)るやと 心遠ければ地も自ずから偏なり 菊を采(と)る東籬(とおり)の下 悠然として南山を見る」(陶淵明の詩歌「飲酒」より)。つまり、私は人里の中に住んでいますが、人付き合いや交通の騒音に悩まされることはありません。どうしたらこんな騒音に慣れるのかと聞かれれば、私の心は世俗から遠く離れて静かになっているからだと答えます。東の塀の下で菊を摘んで、のんびりした気分になっていたのですが、ふと見上げると南山の素晴らしい景色が広がっていたという詩です。

 昔、古人はこのような超然とした心境を持っていましたが、私たち大法弟子はどうしてそれができないのでしょうか?

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/10/3/413266.html)
 
関連文章