文/署名無し
【明慧日本2021年2月1日】師父は「忍の中に捨があり、捨てることができることは、修煉の昇華です。法には異なる次元がありますが、修煉者の法に対する認識も、自らが修めて達した次元での認識であって、それぞれの修煉者の法に対する理解が異なっているのは、それぞれの人がいる次元が異なっているからです」 [1]と説かれました。
修煉の中で、私はいつも戸惑っているのですが、なぜ捨てるのですか? 真の捨てることとは何なのですか? 捨てることについて私は何も知らなかったのです。最近「シビ王と鷲と鳩」という物語を読んで初めて少し分かったことがあります。
シビ族にシビ王いう高徳な王がいました。衆生を救い済度することを誓っていたので、菩薩の次元まで悟ろうと思っていました。インドラと火神アグニは彼を試すために、インドラは鷲に変身し、アグニは鳩に変身しました。アグニは鷲から逃げた鳩を演じ、シビ王のもとに庇護を求めてきました。それと同時に鷲が追いかけてきて、シビ王に鳩を渡してくれと頼んでいました。これを見たシビ王は鳩を引き渡すことを拒否し、代わりに鷲に殺さないように促しましたが、鷲はさらに言いました。「シビ王よ、あなたはすべての衆生を救いたいと言っていますが、今日私の食物を断つならば、私も同じように生きることができなくなります。私はすべての衆生に属しているのではありませんか?」と言いました。そこで王はすぐに剣を抜き、自分の体から肉の一部を切り取り、鳩の命と引き換えにそれを鷲に与えました。
この時、鷲は「この肉と鳩の命を交換したいのであれば、はかりで二つの重さを量って、同じ重さであるかどうかを確認するべきではないのですか?」と言いました。それで、シビ王は下僕(げぼく:下男)に秤皿を持ってくるように頼み、片方の端に鳩を置き、もう片方の端に自分が切り落とした肉を置いた ...... しかし、シビ王が自分の体の肉をほぼ全てを切り落とせるまで切り落とし続けても、もう片方の端にある鳩の重さと同じ重さにすることはできなかったのです。この時、王は全力でよろめきながら、鳩と引き換えに全身で秤皿に登ろうとしました。彼は息が切れたかのように地面に倒れて意識を失いました。目覚めた彼は「悲しみと苦しみの海にいるすべての衆生を救うために、私は勇敢に立ち上がらなければならないのです。今私が受けている苦しみは、地獄の衆生が受ける苦しみよりもはるかに少なく、私は智慧、禅定、修行、精進という功徳の加護を得た今、私がまだ一過性の無常の色体が受ける苦しみを現実として執着しているならば、心が混乱し、大きな苦しみを受けている地獄の衆生をどうやって救うことができるのでしょうか?」と自分に言い聞かせました。彼は自分の肉を切り取り、血が地面を流れる程の痛みにもかかわらず、シビ王は偉大な誓いを立て続けました。立ち上がろうとする気持ちを胸に、何度も何度も地面に倒れ込み、それでも立ち上がろうとしました。最後にシビ王が天秤に足を踏み入れて秤皿に乗り、両端が瞬時にバランスを取りました。
その瞬間、天地が揺れ、海が波を起こし、枯れ木が美しい花を咲かせ、空には香水のような雨と香ばしい花びらが降ってきました。大鷲はインドラとしての姿を取り戻し、シビ王の体も元の姿に戻り、衆生を救うという大いなる慈悲の行ないを真に完成させたのです。シビ王は、菩薩の修行をした菩薩の前世です。
シビ王は鳩を返すために自分の肉を切り、血まみれになりながらも鳩を守り、自分の命を落としても鳩を救っていました。シビ王の心の中では、鳩の命を前にして、自分の苦しみを後ろに置いていたので、彼の断捨離は進んで、正しく、容赦なく行われていました。不平を言わず、躊躇せず、恨み言がなかったのは、他人を救うために自分の命を投げ出した状態に達していたからです。実際、万物への慈悲を真に達成し、生物を守り、衆生を救うことは、自我、利己主義、自己陶酔を真に手放すことであり、心性が向上して初めて達成できるものです。
もちろん、私たちは大法の修煉が過去にこのような形をとっていないことは知っています。19年前に長春の割り込み放送に参加した修煉者は、なぜ生と死を手放すことができたのか、今の私は小さなことをしていても、まだ恐れているのか、と自問していました。私は数人の親戚にすら三退を進めることができていないのに、なぜ一部の同修は真実を語り、一日で何十人もの人を説得して共産党の組織から脱退させることができるのでしょうか? というのが実際のところです。刑務所から出所してすぐに世の人々に向けて真実を伝える同修がいるのに、なぜ自分にはできないのでしょうか?
実際、彼らの強い正念に加えて、人間としての全てを脇に置き、堂々と正義を貫くために率直に捨てることができるのです。自分はどうなのでしょうか? 私は口では捨てると言いますが、心の中では全く捨ててはいないのです。つまり捨てていないのは、心が本当に完全に捨ててはいないということなのです。放したくない、人間のものを手放したくないのです。当然神の領域には到達することができません。
遠い昔、私たちは師父と一緒に一層また一層の天体を経て下ってきた時、自ら至尊(しそん:最も尊いこと)の座を放棄し、神々の世界に別れを告げ、貴重なものを捨て、天族の親族と別れ、逍遥(しょうよう)自在の暮らし(自由を満喫して、優雅に楽しむこと。また、世俗『世間』から逃れて、自由気ままに暮らすこと)を放棄したのです。私達は師を助け法を正すことを誓い、衆生を救い、苦難に耐えることを誓ったのです。その時、私たちは正義をもってすべてを諦め、完全に、完全に神の体を脱ぎ捨てました。
しかし、今、私たちはしばしば、恐れを手放すことができないために、公然と大法を実証することができず、人心を手放すことができないために、正念で衆生を救う勇気がありません。私たちは、そのわずかな利益に目を向けて、他の人と戦うかもしれません。そのわずかな安逸(あんいつ:楽をする)する瞬間が恋しくて、早起きして煉功しないかもしれません。そして、肉体的な苦しみを恐れて、悪に妥協するかもしれません。命を顧みない、無私で恐れを知らず、正義を貫いた大法弟子は、今でも存在しているのでしょうか? 彼らはまだ恐れずに人間のものを断ち切ることが出来るのでしょうか?
何十年も修煉していて、いまだに常人のすべてのものを手放せない修煉者は、実は本当に法の意味を理解していないし、人心を本当に手放すことができないのです。ましてや他人を救うために心を込めて行うことなど出来ないのです。 なぜならば、真の覚者は無私であり、真の仏陀はすべてを犠牲にしています。心が無私であるからこそ、恐れを知らず、話す真理は心に浸透して天地を揺るがし、人々を救うことができるのです。
私たちが名誉のために戦っているとき、利益のために手放したくないとき、不当に扱われ怒りに苦しんでいるとき、愛に巻き込まれているとき、今までの過去を平然として捨て去ることなどを、シビ王の自責を通して考えてみましょう。
最後に、師父の説法の中の二つを一緒に勉強しましょう。
「修煉は、錬磨の中でこそしなければなりません。常人の持っている七情六欲を放棄することができるかどうか、それらに対して淡々としていられるかどうかが問題です。どうしてもそれらのものに執着するのであれば、修煉を成就することはできません」 [2]
「忍の中には捨があり、捨て尽くすことこそ、漏らすことの無いさらに高い法理なのです」 [3]
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「漏るところなし」
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「圓容」