依頼心に市場を与えない
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――同修の迫害から依頼心の危険性を語る

文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2021年2月6日】少し前、私の地区で多くの同修が不当連行や家宅捜索をされ、今に至っても何人かの同修がまだ帰ってきていません。今回不当連行や家宅捜索された同修の中には皆一つの共通点があります。それは「大規模」の字に表現されています。総合的な資料点か、大型資料点か、あるいは大型学法点です。同修の言葉を借りれば、今回迫害を受けた同修は皆当地の精英で、皆良く出来ていると言えます。しかしなぜこのような「精英型」の同修が迫害を受けたのでしょうか? 修煉の角度から言えば、大きな資料点と学法点の形成から、依頼心がその中に含まれているのが原因ではないかと思います。

 依頼心は最大の危害 依頼心を受けた同修は圧力過重 修煉状態が下がる

 迫害を受けた同修Aさんは、家で自分で業務をする以外に、別のプロジェクトをしている同修がその資料をAさんに送り、行き来しているうちに一つの「大規模」な資料点が形成されました。その理由は、多くの同修がAさんのことをよく知っていて、Aさんは仕事能力が高く、資料の回転も早いからです。また、資料が充実していて何でもあり、資料を受け取りに来る人は皆手ぶらで帰ることはありません。ここで送ってはいけないと言っているのではなく、肝心なのはAさんの最近の修煉状態です。事情を考慮しながら送り、状況を把握し、なるべく圧力を緩和させるべきです。ですから私たちが何かをする時の基点と修煉状態はとても重要です。Aさんが不当に連行される2カ月前、学法のとき本を落としそうになり、発正念のときは掌が倒れていました。以前、Aさんに何度も言ったことがありますが、今回私は特に言ったりせず、他の同修にAさんに言うように促しました。私の私心と、同修の情と、それらの「言っても効果がないだろう」という観念が障碍となり、Aさんを害してしまいました。

 とても多くの同修が、同修Bさんを「よく出来る」、「私心がない」と評価していました。私心がないのは良いことですが、しかし出来るというのは表面を見ており、修煉は仕事を行うことだけではなく、心性の問題です。身近にいる同修は自分とBさんの差が大きいと言ってBさんを羨ましがります。Bさんを訪ねて資料を受けとる人は多く、資料も多く貰えて、Bさんの家にある機械は多いのです。彼女の考えはとても簡単で、「機械が多ければ、これが壊れた時にあれがあるので、機械の作動が保証でき、資料の需要も保証できる」といいます。彼女の資料は基本的に全て大きな袋に入れてあり、誰が来てどれだけの資料が欲しくても彼女は全て提供できます。同修が言うように、彼女はとても無私で、自分のことを考えることは、とても少ないと思います。しかし彼女の時間を大量に使ってしまい、体力と精力が及ばず、修煉状態がますます悪くなり、以前迫害から帰って来たとき、発正念をして数秒で身体が横に傾いて、掌も倒れました。以前はよりわずかに良くなったのは、5分のうち2分間だけでした。皆は多くの方法を考えたのですが、効果が見えたのはわずかでした。

 依頼することと依頼されることは 互いに害する関係

 同修Aさんは業務がとても多いため、毎日忙しく、村にも資料を届けなければならず、昔の同修を探すこともしており、新しい学法点も作り、予定がいつもいっぱい埋まっていました。家の資料点もあり、Aさんはこれが終わればあれをして、休憩しているのをあまり見たことがなく、夜はソファーで寝てしまうことがよくありました。忙しくて手が回らないときは、Aさんの家に誰か来たときに時間があれば一緒にやっていたそうです。しかし物事を一手に引き受けるのは、相手の向上を遮ることで、あなたは相手の依頼を引き受け、相手があなたに依頼すれば、それらは互いに良くない作用をします。ある日、私はAさんに用事があって訪ねると、Aさんはちょうど外から帰って来たばかりで、昼ご飯の準備をしていました。このとき1人の同修が資料を取りに来て、待つこともなく、資料をもらってから少し話をして出て行きました。Aさんは私に、「見て、家に帰ったばかりで、まだご飯も少ししか食べていないのに、すでに3人来ました」と言いました。Aさんの話を聞いて本当に大変だと思いました。

 ある日、同修Bさんが私に食事を出してくれました。それは、カボチャ煮とリンゴで、私は今までこのようにして食べたことがなく、これはどうやって食べるのかと聞くと、「このようにカボチャとご飯を食べ、リンゴはデザートとして食べる。ご飯と果物を一緒にすれば、時間の節約になる」と言います。私はそれを聞いて心がとても辛くなりました。Bさんは同修のために、時間通り資料と量をそろえ、ひいては量を越えた資料を取りに来る人もいるので、食事の時も知恵を絞り、時にはひっそり静まり返った夜中に、2時間資料を作っていて本当に大変です。資料を取りに来る同修は考えたことがありますか? あなたは時間と労力と手間を省き、気楽ですが、同修の代価を考えたことがありますか? 私心が代価に取り換えられたのは大きくないですか? あなたの依頼心が同修を陥れ、繁雑な業務に陥らせ、頭は業務のことでいっぱいで、心を落ち着かせることが出来ません。身近にこのような人はいませんか?

 同修Dさんは、正直で正念がとても強いのです。話によると彼の家の学法点は多くて14~15人で、大部分の同修は彼のことを正念が強いと言います。この「正念が強い」と言う背後には、彼の学法点に行けば安全が保障されると思う執着があるのではないでしょうか? 依頼する心はありませんか? 人多就嘴雑(意味:人が多ければ秘密が守れない)とは、心性の高さが異なる次元の中で、学法の前に、ある同修は口を修めず、だらだらと意味のないことを喋り、ある人は学び終わってから雑談し、同修の家で続けて雑談して、全く同修と学法点の安全を考慮していません。私はかつて彼の学法点が出来たとき、長短両面をアドバイスして、学法前に常人の世間話をやめるように言いました。彼はこのように行うことに賛成せず、「誰をつまみ出すのですか?」と言い、私は「つまみ出すのではなく、条件のある同修は別の学法点を作って何人かを分けたらどうですか。聞いてみてはどうでしょうか?」と言うと、彼は「必要ありません。今はこのようにしましょう」と言いました。同修がこのようにするのは、この場所を圓容するためだと知っており、善の心で行うのは、心性が向上している現れです。しかし同修よ、あなたは考えたことがありますか。あなたが向上しても、あなたのこの小グループは向上していますか? その後、学法点に問題が起こって解散になり、聞いた話では、ある人は新しい学法点をまた作り、ある人は訪問する勇気がなくなり、ある人は自分の家で学んでいるそうです。

 依頼者は強大で頑固な自我を引き起こす

 ある日、同修Aさんとの会話中に私は、「あなたの業務がすこし緩まることが出来るように願っています」、「休むように言っているのではなく、時間が出来れば心を静めて、何が修煉なのかをよく考えてみてください。業務をすることが修煉のかわりになるかどうか、大法弟子とは何か、正法時期の大法弟子とは何か、最後のこの道をどのようにして良く歩めるか考えてみてください」と言いました。Aさんは苦笑して言いました。「このことを私がしなかったら、誰がするの?」。たしかにAさんのように行える人は身近には本当に少ないと思いますが、しかし身近な人と一緒に行えば良いのではありませんか? いったん自我が形成されたら、掌が倒れるという厳重なことでも、Aさんの身近な同修は誰も指摘せず、指摘すると爆発し、聞かないだけでなく、色々な理由で逆に同修を指摘します。同修が指摘するとAさんは「空間場に良くない物質を加えている」と言い、同修のいたわりの言葉を聞くことが出来ませんでした。

 時には拒否することも一種の善意の表れです。私はかつて同修Bさんに「同修からの資料の要求を拒否したことがありますか?」と聞いたことがあります。Bさんは「ないです。なぜ拒否するの。皆同修で、同修が必要としているなら、当然買って出ます」。そうです。あなたは買って出ていますが、考えた事がありますか。機械が多すぎて、気を配れますか? あなたの功能であんなに多い機械を動かせますか? 動かせなかったら、資料の量や質を保証できますか? 時にBさんを見るとてんてこ舞いで、頻繫にロスが出ます。それに、多ければ良いということではなく、業務をすることと修煉は同じでしょうか。同修を拒絶することはとても難しいと知っています。あなたがこの事を正しいと思っていれば、拒絶しなくてもかまいません。しかし時間と、精力が許せばです! 依頼することと、依頼を受けることは、みな背後に「情」があります。

 師父は説かれました。「心があることは悲ではない」[1]。人心があれば悶着があり、人心があれば情があり、人の情があれば拒絶出来ません。

 こんなに長年、何度も何度もBさんは刑務所の中で過ごし、アドバイスを聞かないことでも有名で、出てきてから時間が大切だと思い、急いで前に進みます。最初私たちは相談して、まずBさんに一時の間心を静めて学法させ、心性が上がって来るのを待ってから、Bさんに機械を与えようと思いました。しかし数日も経たないうちに、Bさんは私たちに内緒でこっそりと機械を設置し、一台だけでなく、まもなくBさんの家は「小規模加工場」になったのでした。同修も何度もアドバイスしましたが、基本的に逆らわれて帰って来ました。Bさんのやり方は基本的に、「あなたの言うことはみな正しい、でも私は変えない」です。自我の心が膨れて、とても強大です。

 依頼心は他の執着を生じさせ助長する

 依頼心は、他の執着を生じさせ助長させます。それは怨恨の心です。業務が増えるにつれ、同修Aさんの圧力がますます大きくなり、交流中に様々なイライラが見えました。Aさんの気持ちと意見が合わないことや、物事の按排が周到でないときや、Aさんに協力しないとき、自分の意見をはさみ、興奮して話し、自我の心がゆっくり膨れていきます。私は自分が、そのような状況になったらどうなるのか思いました。「みんな嬉しそうにやって来て、満足して帰って行きます。誰がきても手ぶらで帰ることはありません。ほら、とてもいいでしょう」。このように、顕示心と歓喜心が出るのではありませんか。資料が届いていなかったり、あるいは送った物が足りなければ焦るのではありませんか。それで圧力が多くなり、心配と恐怖心が出るかもしれず、同修がまた資料を送ってと言うなら、不満の心と面子を重んじる心が出ませんか。自分を見て、深く掘り下げると、とても多くの執着心が生じるのではありませんか!

 不当に連行された同修Cさんは交流を通して、最大の現れが怨恨だと分かりました。别の同修がCさんに、あれやこれやを按排し、なぜこの人は自分でやらないのかと怨みましたが、しかしCさんは面子から断るのは恥ずかしくて、無理に引き受けたと言います。このように、気乗りしない受け身なやり方では、結果が良くなるでしょうか? 常人でも言いますが、「物事を無理やり進めても、良い結果は得られない」。無理に要求することは法に符合していません。私は同修に聞いてみたいのですが、「このことは私は出来ません」、あるいは「今は、手いっぱいで、他の人に頼んでいただけませんか」、あるいは「今やっている事が終わってから、数日後でもいいですか?、と言うのは難しいですか? 他にも、業務を按排する同修は、相手にきいてみてください。「このようにしていいですか? どうですか?」と。他人の立場に立って、どんな困難があるのか相手にきいて、相手のために考えたらどうですか?

 かつて1人の同修と私は、機械を増やすことを相談していて、1台が壊れても、もう1台があれば良いのではないかと相談しました。彼は「自分の心性が及ばない」ときっぱり断りました。私も再度言いませんでした。今年になって、彼は1台の機械を増やしたそうで、彼に会った時に「心性に到着した。私も機械を持てるようになった」と私に話してくれました。その話を聞いて彼のために喜びました。ついに心性が上がったのです。

 師父は説かれました。「この理は、たちどころに認識する人もいれば、徐々に悟り、認識する人もいます。どう悟ってもいいのではないでしょうか? いっぺんに認識できれば、それに越したことはありませんが、徐々に悟ってもかまいません。どちらも悟ったことになるのではないでしょうか? どちらも悟りですから、どちらも悪くありません」[2]

 結び

 私たちは、執着を容易に探せますが、しかし執着の背後にある「観念」を探すのは難しく、それらの執着と、背後の観念を取り除くのは更に難しいのです。時に私たちは無理だと思ってしまいます。しかし、本当に無理なのではなく、努力していないからで、心を込めて良く行っていないのです。出来なくてもいいというのですか? 師父は「做すところ到るは是れ修なり」[3]とおっしゃったではありませんか? もし、数年前のあのとき、あなたが一歩を踏み出せていたら、今も順調に出来ていたのではないでしょうか? もし一人一人が皆、相手を考え、全体を圓容し、観念を突破し、自我を放下できれば、このような大規模な資料点、大規模な学法点がなくなり、大量の業務が数人の身に集まることもなくなり、依頼心もなくなれば、邪悪はどのように依頼心を利用して迫害できるでしょうか?

 私たち修煉者は、一つの心でもすべてが壁で、山です。突き進めば天で、突き進めなければ山に座っています。依頼心だけにとどまらず、嫉妬心、顕示心、業務をする心、面子の心などはみな、人を害するものです。あなたがいつも、この執着心の大きな場を増やすと、あなたの修煉の難しさが増し、さらに多くなります。依頼心に場を与えず、どんな執着心にも場を与えなければ、やっと修煉者の頭で考える事が出来ます。

 浅い認識ですが、不足がありましたら、慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法五』「二〇〇四年米国西部法会での説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [3] 李洪志師父の詩:『洪吟』「実修」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/1/14/418502.html)
 
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